とした……云わば社会の不正であるように思われた。それに私は、寺田さんが置いていったという書物がほしくてたまらなかったのだが、それをみな警察に持って行かれたと聞いた時、憤慨の気持は一層高まった。私は不安の余り虫眼鏡を戸棚の隅に隠しながら、寺田さんの蒼白い顔を思い慕った。
寺田さんは幼い私の性情に最も感化を及ぼした人の一人だった。思い出はいくらもある。そしてこの「回想記」の主題と密接な関係があるのは、後年横浜で出逢ってから以後のことである。その時彼は、共産主義とトルストイ流の労働主義とをこね合した思想の把持者だった。がそれらのことは後に述べるとして、茲にはただ一つ、私が自分でも知らずに彼を喜ばした※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話をつけ加えておこう。
同じ年の秋の末だった。或る爽かな晩、私は寺田さんと二人で外を歩いていた。どうして二人で出歩いたかは今覚えていない。
両側の軒並に切り取られた長い空に、星が実に綺麗に輝いていた。薄暗い裏通りだったので、その星空が河を逆さに覗き込むようで殊に美しかった。
寺田さんは空を仰ぎながら、立ち止ったり歩き出
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