わざやって来て、寺田さんの書物はそっくり押収してゆき、布団は当分保管を命じていったのである。
 寺田さんの逃亡は、私達に大きな打撃を与えた。
 父はひどく落胆しきって、益々一人で憂欝そうに考え込むようになった。父が寺田さんに何を期待していたかは私には分らないが、今になっての私の想像を許さるるならば、寺田さんがもし労働運動に成功していたら、父は容易く王子分廠に就職出来たかも知れないように思われる。或はさほど深い関係がなかったにもせよ、寺田さんが逃亡したということは父の気持の上では杖を失ったようなものだったろう。
「寺田さんは屹度いつかこっそりやって来る。」
 父は後々までそう云い続けていたし、そう信じきってるらしかった。
 母は寺田さんを許していいか憎んでいいか、自分でも分らないような風だった。何かにつけては五十円の証文のことをもち出して、口汚く罵りながらも、すぐその後で、いい人だったとか恐い人だったとか云って、溜息をついていた。
 私は何だか、誰に向ってともなく無性に腹が立った。寺田さんが母や隣りのお上さんに金銭上の迷惑をかけていったことが、寺田さんの方の不正ではなくて、或る大きな漠然
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