こかへ行ってしまうんじゃないかという気がしたのである。
 世の中には、何か特別なことをしなくても或るはっきりした印象を残すような、そういう人がいる。彼も恐らくその一人だったろう。何にもはっきりしたことを云いも為しもしないで、ごく些細な動作や身振や言葉遣いなど全体の感じで、それと人に納得させるのである。何か一つの事柄についてばかりではない。彼に対する私達一家の尊敬がやはりそうだった。父の仲間のうちでただ彼だけに対して、さんをつけて寺田さんと私達が呼ぶようになったのも、彼が何か優れた能力を見せたからでもなく、比較的知識が広いからでもなく、普通の労働者と少し違った言葉遣いをするからでもなく、自然と人柄の感じから理由なしにそうなったのである。職工達の間に彼が声望を持っていたとすれば、それもやはり理由なしに自然とそうなったのだろう。
 彼が帰っていってから、暫く空虚な沈黙が続いた。私は堪まらなくなって云った。
「寺田さんは、どっかへ行ってしまうんじゃないかい。」
 母はぎくりとしたように顔を上げた。
「ほんとにそうかも知れないねえ。だがまさか……。」
「なあに行くもんか。寺田さんは解雇されやしね
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