しぶりで私の家にやって来た。私は嬉しかった。職工の運動云々のことにも拘らず、父母も喜んで彼を迎えた。そして彼は父と酒を飲み初めた。
その晩彼がどんなことを云ったか、私は殆んど覚えていない。思い出すことといってはただ、酒を飲むに随って、彼の額が益々蒼白く澄んでゆくような感じだったのと、帰りしなに、母へ眼病の妙薬とかいう薬草を置いていったのと、虫眼鏡で私と暫く遊んでくれたのだけである。――薬草というのは、四五寸ばかりの小さな乾草で、その汁を水にしみ出さして眼につけると、どんな眼病にも利くというのだった。が、母は其後一度もそれを使わなかった。薬草はどこかの隅に永久に置き忘られてしまったらしい。
彼は二三時間私の家で過ごして、いつもの通り裏口から静かに帰っていった。然し彼はその晩、私が殆んど何にも覚えていないように、特別に変ったことは何一つ為しも云いもしなかったに違いない。もし、何か特別なことがあったら、私が見落す筈はなかった。なぜなら、私と彼と虫眼鏡でいろんな物を眺めながら、凡そ印刷物のうちでも、紙幣が一番よく印刷してあるというようなことを、彼から聞かされてるうちに、ふと、これきり彼はど
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