え。」
 父は一人で反対して、残りの酒をまだ飲んでいた。
 が実際、寺田さんはその夜限り行方をくらましてしまったのである。
 翌日、寺田さんの室が、戸が閉ったままになってるので、私は一人気を揉んでいた。すると晩になって、隣家のお上さんが慌ててやって来た。手に葉書を一枚持っていた。
 母は顔色を変えて父のところへ飛んできた。隣家のお上さんも上ってきた。葉書は寺田さんからのものだった。――此度都合で旅行することになった、もう帰って来ないから、室は自由にして欲しい、残してる蒲団や書物を、少いけれど今月分の宿料の代りに処分して欲しい……とただそれだけの文面だったらしい。
「ふだん御懇意だったようですから、御心当りはありませんかと思って……。」
 お上さんはさも当惑そうな顔をして、遠慮しいしいそんな風に云い出していた。そして、残ってるのは薄い蒲団と五六冊の書物とだけで、とても宿料なんかに追っつきはしないことを、遠廻しに云ってから、信玄袋が一つあったのだが、いつのまに持ち出したのかしらと父母の顔を探るように見比べていた。
 それが母の癪に障ったらしかった。母は箪笥の隅の抽出から、一枚の紙を取出して
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