かり喜んでいた。金槌の音が煩いと母から云われると、寒い中を裏口に出てカンカンやっていた。
 そういう父の生活は、ひどく退屈なものだったに違いない。そこから不幸が起ってきたのだ。――然し私は余り先まで筆を運びすぎた。元に戻って事件を述べてゆこう。

 父が砲兵工廠を罷めてから間もなく、私達を最も驚かしたことは、寺田さんの失踪だった。
 寺田さんは父と同じ砲兵工廠の職工で、レンズ磨きの方に働いていた。四十年配の、背の高い痩せた独身者で、いつも蒼白い顔をしていた。※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]にしょんぼり短い髯を生やしてるのと、右の手が左の手より長いように思われる恰好とで、特殊な印象を与えるのだった。
 彼は一年余り前、砲兵工廠へはいると同時に、隣家の離室へ越してきた。その離室が、隣家というよりも寧ろ私の家と隣家との界にあって、大きな窓が私の家のすぐ裏口に面していたので、間もなく非常に懇意になった。離室から一寸木戸を押し開けると、私の家の裏口に出られた。彼は度々てって来て、夜遅くまで話しこんでゆくことがあった。と云っても至極無口の性質で、自分の経歴などは少しも話したがらなかった。
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