かった。母は眼に涙をためていた。父はいつまでも酒を飲んでいた。
「少し古いけれど、いつでも建て直せるんだからね、……それにもう長年住み馴れたのだから、元々から自分の家のようなものだ。だから俺は、あの通り公孫樹を大きくして根を張らせたのだ。」
 そんなことを父は感慨深そうに云って、やがては地所も買いたいなどと云っていた。
 然し父のそういう元気には……というより、父の頭には、火事の時以来ひびがはいっていたのかも知れなかった。三年後に、脳溢血でふいに死んでしまったのである。遺言を聞くひまもなく、医者も間に合わないくらいだった。入浴をしてから、二階の書斎で暫く何かしているうちに、ふいにぶっ倒れたきり、もう再び意識を回復しなかった。
 父の死後、僕は長男として家督を継いで、いろんなものを整理し初めた。そして、古い手文庫の抽出をかき廻してると、その底に意外なものを見出した。
 それは六つ折りの奉書紙で、折り畳んだ真中に公樹と二字認めてあり、表の上に、何年何月何日生としるしてあった。みな父の筆蹟だった。よく調べてみると、僕達兄弟のと同じ形式の七夜の命名式の紙で、その生年月日は僕より一年三ヶ月前だっ
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