彼女は彼が息を殺しているのを見た。眼を一つ処にじっと定めているのを。その頬にたまらないような淋しい陰影があった。
「何かお気に障ったことを申したのでしょうか?」と彼女はそっと問うた。
「いいえ、」と彼が答えた。「どうか悪くおとりになりませんように。何でもないんですから。」
「それならいいのですけれど……。」
沈黙が続いた。青年は何かに思い耽っているように身動きもしなかった。それを見ると、彼女の心に深い処から謎《なぞ》のような不安が上って来た。でふと立ち上って、火鉢の火を何気なく囲炉裡の中に移した。
「寒い日ですことね。」
青年はホッと溜息をついた。
「私もう帰りましょう。」と彼は云った。「どうか悪くお思いなさらないように。」
まだ細い雨が降り続いていた。薄すらとした靄が午後の明るみに包まれて、その間を小さい雨脚が銀色に縫っている。大きく宿屋のしるしの入った傘をさして行く青年の後姿を、彼女は憫然《ぼんやり》として見送った。
表をしめて足を返した時、彼女は何か物につき当ったような心地がした。頭の隅で青年の運命が悲しい形を取った。それは死というほどのものではなかったけれど、然し大
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