を映して淡々しい。
「今日はお一人ですか?」と彼がきいた。
「ええ此の頃ではお客もあまり無いのですから、女中は二三日前に兄の方へ、やはり温泉場で宿屋をしていますものですから、その方へよこしてしまいました。ここまで三四町しかありませんからね。それに晩は泊りに来てくれますし……」
「昼間でもお一人でしたら随分静かでしょう。」
「ええもう静かすぎて淋しい位ですよ。でもそんな時、いつも聖書《バイブル》を少しずつ読むことにしていますの。」
と云って彼女はちらと男の顔を見た。「淋しい時は大変に慰められますから。」
「ずっと前からの御信仰ですか。」
「そんなに昔からでもありませんけれど……。」云い乍ら彼女はその当時のことを思い浮べた。夫の死後故郷に帰って余儀ない事情からこの湖畔の茶店を守る身とまでなった当時のことから、ある夏に度々訪れて来た一人の信者に導かれてその途に入ったことなど。そしてこうつけ加えた。「それから私は大変幸福になったような気が致します。」
「私も一度は信者の途を歩いたことがありました。」彼の顔がチラと輝いた。「今は別の途を歩いていますが。」
「それでは、」と云ったが一寸言葉が見出
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