て湖水の面は一杯に張り切っている。落ち来る雨の粒はその緊張にはね返されて、幾つかに砕けて光る小さい露の玉の形を暫くは水面に保った。
 その時表にふと人影を見出したので彼女は立ち上って障子を開けて見た。それは先日《いつか》の青年であった。
「ちと息《やす》んでいらっしゃい。」と彼女は云った。
 彼女は青年を家の中に導いて、囲炉裡に火を焚いた。彼の姿は雨の中にいたいたしいように彼女の眼に映った。
 二人は狭い土間の囲炉裡の側に腰を掛けた。あたりはごたごたと散らかっていた。菓子箱や絵葉書の箱などが椽端から取り片付けて、其処らにつんであるのを青年は珍らしそうに見廻した。
「もう此の頃はお客も少いのでしょうね。」
「ええすっかり寒くなりましたものですから。それに今日のような雨の日は特《こと》にね……。」と云って彼女はかすかに微笑《ほほえ》んだ。
「でも今日は大変いい景色でした。それで湖水の岸に長い間立っていたのはよかったのですが、急に寒くなって実際弱ってしまいました。」こう云って彼はひどく真面目《まじめ》な顔をしている。
 雨がしきりなしにまだ降っていた。囲炉裡に燃ゆる火が昼間の光と湿った空気と
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