「絵葉書はありませんか。」
 その時彼女は明かに青年の顔を見た。窶れた顔は淋しい輪郭をしていた。逼った額は一層彼の顔を淋しく見せた。堅く結んだ口元とうっとりとした悲しみの眼とは、一つ思いに満ちた心を示していた。で労《いた》わるような調子でこう答えた。
「みんな湖水のばかりなのですよ。」
 青年はその一枚を取りあげて暫くじっと見ていた。それはふっくらとした湖水の面を単調に写し出したものであった。それから彼は五六枚を選んで、そのまま黙って湯の宿の方へ帰って行った。
 何だか淋しい影を引いている人だと彼女は思った。

 曇り勝ちで佗《わ》びしい一週間が過ぎた。
 前日よりしとしとと降り続いた雨は午後になっても止まなかった。雨を含んで重たい雲の脚が山々の頂を匐ってゆく。そして榛の林に、湖水の上に、冷たい小さい雨の粒が忍び歎く音を立てている。その顫音が集って、仄暗い家の中の空気に頼り無い寂寥を満す時、彼女はむやみと火鉢の炭を足して、軽く頬が熱《ほて》るまでに火を熾《おこ》した。障子の腰にはまった四角い板硝子を透して見ると、外にはしっとりした靄が細い雨に縫われて低く垂れている。その靄の圧力を受け
前へ 次へ
全27ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング