。凡てのものが息を潜めている。時が音を立てないで静に過ぎ去る。……やがて女はそっとハンカチを自分の顔に当てた。それからまた男の眼と頬から涙を拭ってじっとその顔を覗《のぞ》いた。その時男は組み合せた両手を解いて柔く女の頸を抱いた……男は立ち上って櫂を手にした。女は空を恍惚《うっとり》と見上げている――
彼女は急いで家の中に入った。呼吸が喘いでいる。見てならぬものを見たという悔いよりも、神聖なるものを涜したというような恐れが胸に湧いた。お社《やしろ》の御龕をそっと覗いたような心地がした。其処に深い処から何かがちらと光った。じっとしていられないような気がした。
彼女は囲炉裡に火を焚いた。それから火鉢に湯を沸した。どうかしなくてはならないとわけもなく思った。
渚に舟の音がした時彼女は急いで其処へ立ち出でた。
「遅くなってすみません。」と男が云った。
「お帰りなさい。」と何気なく彼女は云った。
二人を家の中へ導いて後、彼女は舟から一切のものを運んだ。そして舟を其処に繋いだ。
彼女は暫く外に立っていた。何か大きいものが彼女の上に被《かぶ》さった。そしてわけもなく騒ぐ心が強く二人の方へ引き
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