周章《あわて》た自分の心が不思議に思えた。一つの静安なる生命が、限りない喜びを与える。
 晩秋の太陽の光りは弱々しく、森の上に野の上に煙った。湖水の面がきらきらとその光りを刻んでいる。舟は夢のように浮んでいた。青年は櫂をすてて女と並んで坐った。彼等は小さい板片を手にしている。そして各《おのおの》舷側から水の中にそれを浸して、時々は当度もなく舟を動かしているらしい。
 彼女は無心に小石を一つ拾って水中に投じてみた。その小さい音が青空の下に消えてゆく時、彼女の静かな悦びがゆらゆらと揺いだ。凡てのものの母であるというような広い心は、また只在ることの静かなる悦びは、渚に戯るる小さい漣の音にも融けてゆく。生きることから解放されたような安易と、彼方の空から来る愁とのうちに、彼女は神を想った。
 やがて彼女は立ち上って家の方へ歩いた。頭が自然に力なく垂れた。その時彼女は旧友のなつかしい名を誰彼と思い浮べていた。そして家に入るとその一人に久々の音信を送ろうとて筆を執った。

 山に囲まれた盆地は暮るるに早かった。山懐の森の中から夜がひそやかに忍び出た。湖水に映った空の光りが薄れて、只一面に茫然たる灰色
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