女はその時ふり返ってじっと彼女を見た。晴々とした顔に無邪気な眼が光っていた。で彼女はこう答えた。
「ええ御|悠《ゆっく》りと。……でもあまり遅くなりますと心配ですから。」
男は一寸躊躇していたが、そのまま舟へ入った。
彼女は緊《しか》と舟の艫《とも》を掴んだ。何か心に残るものがあった。でもそのまま力を込めて舟を押した。舟はスーッと渚を離れた。急に重い荷を下したような安堵が彼女の心に感ぜられた。
舟が静に水の上を滑った時、女は舟縁《ふなべり》から白い手を出して冷たい水の面を指先で掻いている、そして男の方へ向ってそっと微笑んだ。
水棹を捨てて櫂を取った青年の手元は覚束ないものであった。舟がくるりと廻った。それでもどうやら少しずつ漕いでゆくらしい。
彼女はそのまま渚に屈《かが》んだ。大きい安静が彼女を包んだ。かの二人は嬉しさと悲しみとに満ちた心で結ばれている間であることも彼女はよく知っていた。二人を水の上に浮べて、今|日向《ひなた》の磯の上に解放された自分の心を見出す時、彼女は自分が凡ての自然の、山の、森の、また水の、さては二人の湖上の愛の母であるように思えて来る。先刻《さっき》の
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