いと真実に宣言することは、容易ではない。そうした旅立ちは、更生への途によりも没落への途に通ずることが多い。そして不思議なことには、没落への途を辿る者は、初めからそんな宣言なんかはしない。恐らくは出来ないのであろう。また、そういう人々に限って、アンチゴオヌやソーニャを持ち得ないことが多い。偶然の運命によることもあろうけれど、それよりも、そうした伴侶を発見するだけの誠実さを持ち得ないほど卑怯になっているからである。
 発見するだけの誠実さを持ち得ないほど卑怯に……この言葉を私は今考える。それと共に、人生に於ける魂の故郷でなく、普通の故郷のこと――吾々が生れた土地、或は幼年時代を過ごした土地のことを、想ってみるのである。
      *
 私は十二三歳まで、生れた田舎の土地で過ごした。その故郷の印象は、今でも頭にまざまざと残っている。
 春の晴れた日には、紫雲英の咲き揃った畑中に寝ころんで、凧をあげながら、彼方に連なる山の峰と、その高さをきそった。夏の夕方には、馬に乗せてもらって、河の堤を走った。夜になると、その河の浅瀬に、投網に連れていって貰った。鮎や鮠や鮒が、龕灯の光を受けてぴちぴちはね
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