肩を引き寄せて、その言葉を耳に囁いた。
彼女はぎくりと身を震わし、顔を挙げ、袖口で涙を拭いて、強く頭を振った。
「ばか。」
頬をぱっと紅らめ、それを押し隠すかのように私の胸へ寄り縋ってきた。
私にはもう到底、理解が出来ない。私の思いも及ばないようなものがあるのであろう。彼女は私の胸へぐんぐん寄りかかってき、全身の重みをぶっつけてきた。乱暴だ。不用意に私は転げ、彼女も転げた。転げながら、私の胸をどんどん叩いた。その手をはねのけて私は起き上った。彼女も起きて、ウイスキーをあおった。
「松井さん!」
眼に病的とも言える陰を宿して、唇を少し歪めている。
「あなたの頬っぺたをなぐったら……どうなさる。」
愚問には答えないに限る。私は黙って、ウイスキーを飲んだ。
「わたし、もうくにへ帰るのはやめます。その代り、あばれてやるから。」
眼にいっぱい[#「 眼にいっぱい」は底本では「眼にいっぱい」]涙をためて、洟をすすった。
「癪にさわる。……あなたのおかげで、わたし、だめになっちゃった。……どうして下さるの。」
いつもとまるで調子が違って、酔狂の沙汰だ。
「いいわ、あばれてやるから。」
じっと眼を据えて、飲み干したグラスを卓上にころがし、指先でぐるりぐるり動かしている。
私は仰向けに寝ころがった。
「もうわたしのことなんか、どうでもいいのね。わかりました。そんなら、帰ります。」
その言葉が、ふいに、私の憤りを誘った。
「愛想づかしなら、もうたくさんだ、帰るなら、帰ったらいいじゃないか。」
ちょっと、ひっそりとなった。私は腕を眼の上にあてた。何も見たくなかった。
「わかりました。帰ります。」
こんどはいやに静かな声だ。そしてやはり静かに、彼女は立ち上って、室から出てゆき、静かに階段を降りていった。
私は寝そべったまま、眼をふさいでいた。体がしきりにぴくぴく震えるのを、じっと我慢した。それから、俄に飛び起きた。耳をすましたが、何の物音も聞えなかった。彼女は影のようにすーっと去ってしまった、という感じだった。待ってみたが、戻っては来ない。
私はウイスキーの残りを飲み、炬燵の上に寝具を投げかけ、額までもぐりこんだ。もう夜が更けていたが、眠れはしなかった。
翌日の午前中、私は加津美のまわりを、遠巻きにぐるぐる何度か歩き廻った。まだはっきり決心がつかなかったのだ
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