多い巳之助が、そのようなことを言い出しましたので、久江夫人は眼をしばたたきました。普通の病気と違うらしい容態、言葉少なに重々しくなった医者の態度、病室の空気の沈んだ気配などが、胸にこたえました。それを、しいて彼女は微笑みました。
「そのようなことは、どうでも宜しいではございませんか。病気がおなおりなすってからでも……。」
「今でなくてもよいが、然し、あの姿を、あすこに曝さしておくのも、気の毒だからね。」
 久江は彼の顔を眺め、それから椎の木の方を眺めました。
「ほんとに、惜しいことをしました。あの木は、家の目印しでございましたからね。空襲中、見舞いにいらして下さる方は、遠くから、あの木が青々としているのを御覧になって、まだ無事だと、そうお思いなすったそうでございますよ。」
 巳之助は返事をしないで、苦痛に似た表情をしました。それから、暫く無言のあとで、打ち切るように言いました。
「伐り倒して、薪にでもするか。」
「薪には、ほんとに不自由しておりますから、たいへん助かりますけれど、それにしても、あれを薪に割るのは、容易ではございますまい。」
「なあに、造作もないさ。」
 それきり、巳之助は眼をつぶりました。眼をつぶったまま、じっとしていました。
 久江は側についていましたが、巳之助が眠ったようなので、そっと席を立ちました。
 久江が室を出てゆくと、巳之助はふいに、ぱっちり眼を開きました。然し何を見るともなく、ただ宙に視線を据えました。
 ――久江にとっては、あの椎の木など、もう何でもないのだ。
 そんなことを巳之助は思い、それから呟きました。
「なにしろ、焼けて枯れてるんだ。」
 この椎の木が、今まで生き存えてきたのも、幸運に恵まれたからだとも言えますでしょう。何百年もの間には、落雷を受けることだって有り得たでしょうし、特別の災害を受けることも有り得たでしょう。柴田巳之助が覚えてる限りでは、二十数年前の関東大震災の時だって、情況が変っていたら焼けたかも知れません。
 その時、九月一日の正午二分前、大地の鳴動と震動に、椎の大木は、幹に亀裂がはいりはすまいかと思われるほど揺ぎ且つ撓いました。然しそれも一瞬のことで、引続く余震には毅然と抵抗しました。
 近くに火災が起りました。それがもしも燃え拡がっていたら、椎の木は危いところでしたが、十戸ばかりで止みました。
 火災は遠くの地区を嘗めつくしてゆきました。二日の夜明けには、火先は一粁ほどのところへまで寄せてきました。潮鳴りのような音をたててる火と煙との海でした。それがどこまで寄せてくるか、予想はつきませんでした。椎の木の半面は、昼間よりも明るく、重なり合った葉の一つ一つ、樹皮の皺の一つ一つが、はっきり数えられるほどでした。然し、それだけのことで済みました。
 この椎の木のほとりを、人々は避難所としました。最初の大震動の後、柴田家の人たちは椎の木のそばに集りました。余震は頻繁に起って、屋内は危険でした。夜になると、椎の木の根本に蓆と蓙と布団を敷いて、野宿をしました。両隣りの家の人たちも、そこに野宿に来ました。次の夜も、同じ野宿[#「野宿」は底本では「野原」]が続きました。
 この野宿の時、七歳になる幹夫は、殆んど眠らなかったようでした。二人の姉はよく眠っているのに、幹夫だけは、いつも眼をぱっちり開いていました。久江がいくら寝かしつけようとしても、幹夫はまた眼を見開きました……。
 そのことが、次の夜は、姉の千代子にも感染しました。二人とも、言い合せたように、眼を見開いては、椎の木の上方を眺めていました。久江が注意を与えると、おとなしく眼をつぶりましたが、やがてまた眼を見開きました。そして久江はうとうとしている間に、二人の囁き声を聞きつけました。
「見えるの。」
「見えるよ。」
「どこに。」
「上の方、大きい枝の、先んところ。」
「あたくし見えないわ。」
 暫く言葉がとだえました。
「まだいるの。」
「いるよ。」
「うそ。」
「ほんとだよ。あの大きい枝……。」
 また言葉がとだえました。
 久江は半身を起しました。
「あなたたちは、何を言ってるのですか。何がいるのですか。いつまでも眠らないで、何を見ているのですか。」
 千代子が答えました。
「あすこに、椎の木のなかに、フクロウがいるって、幹夫さんが言いますのよ。ねえ、お母さま、お母さまにも見えますの。」
 久江は思わずつりこまれました。
「どこにいるのですか。」
 幹夫が元気よく答えました。
「高いところ……いちばん上の、大きな枝にいますよ。」
 久江は見上げました。こんもりした茂みで、梟の姿などは見分けがつきませんでした。然し梟といえば、夜なか、その声が聞えることがあって、茶の間から一同、耳を澄したことも何度かありました。
「あたくしに
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