は見えないわ。」と千代子が言いました。「鳴き声も聞えないじゃありませんか。」
「さわがしいから、鳴かないんだよ。」
幹夫の言う通り、遠いどよめきが、へんにむし暑い大気のなかに伝わっていました。
そのどよめきが、次第に盛り上ってきて、火災は一粁ほど先まで迫り、昼間のように明るくなりました。明るくなると却って、梟の姿はもう幹夫にも見分けられなくなりました。
屋敷内を見廻って戻って来た巳之助は、その話を聞くと、子供たちに言いました。
「火事の火で明るくなったから、梟はびっくりして、寝床に隠れたんだろう。お前たちも、もう眠りなさい。」
然し、こんどは、子供たちは火事の方に注意を向けました。
その後も、時々、梟が椎の木にとまっていると、幹夫は言い張りました。千代子は見えないと頑張りました。けれど、千代子も梟の味方で、蝙蝠を憎みました。蝙蝠が邪魔をするから、梟は椎の木に落着いていないのだと、彼等は考えました。そして蝙蝠を退治しようと苦心しました。夕方、薄暗くなりかける頃、見張っていますと、ほんとに蝙蝠がひらりひらりと、椎の木の蔭に飛んでることがありました。千代子は小さな石を投げ上げました。その石の落ちるのを、蝙蝠は追かけてきました。それを幹夫は狙いました。釣竿のような竹の先に、鳥黐をぬりつけたのを、力一杯うち振って蝙蝠を捕えようとしました。だが蝙蝠は、ひらりと身をかわしました。
或る時、その竹竿をうち振るはずみに、幹夫は転んで、石に額をぶっつけ、血を流しました。
千代子と、久江まで、大騒ぎをしました。幹夫をむりに寝かしておいて、医者を迎えました。
巳之助は、久江に相談されて、梟の剥製を探しました。震災で市街の大部分は焦土となり、莫大な死傷者が生じ、不安恐慌の気が漲り、生活の方途が混乱を来している際、巳之助は、救恤と復興との政治機関に働きながら、一方、梟の剥製を探し廻りました。やがて、幸にもそれが見つかりました。神代杉の細工枝にしっかりと取りつけたもので、羽毛が放射状に生えてる顔盤の中の真丸な眼が、生きてるように輝いていました。製作者自慢の義眼でした。
それを貰うと、幹夫は家中を駆けまわって喜びました。
椎の木の梟はいつしか忘れられ、剥製の梟が幹夫の最愛の友となりました。
そうした幹夫も、今ではもう三十歳になろうとしています。
――彼は椎の木のことを、何と思っているかしら。
柴田巳之助はそう考えて、自分の気力の衰えをちらと胸に浮べました。
そしてそれを押し切るようにして、幹夫を枕頭に呼びました。
「あの椎の木だがね、あれはもう生き返るまい。」
「ええ、とてもだめでしょう。」と幹夫は平然と答えました。
「それでは、伐ろうじゃないか。」
「そうですね、私もそう思っていました。あれがずいぶん火を防いでくれましたから、家のためには役立ったとも言えましょうが、どうせ枯れてしまうとすれば、伐るより外はないでしょう。」
「伐ってしまったら、あすこが、淋しくなるだろうね。」
「そりゃあ穴があきますよ。その代り、風通しも、日の通りも、ずっとよくなります。あんなに伸び拡がってる大木ですから、取り払ったら、びっくりするほど大きな青空となるでしょう。そのあとに、なにか元気な若木を植えたらどうでしょうか。」
巳之助は黙って眼をつぶりました。やがてまた眼を開いて、ぽつりと言いました。
「お前は、あの木に不満だったようだね。」
「不満じゃありませんよ、むしろ、大木として自慢でした。けれど、少し陰鬱でもありました。」
「陰鬱だって……。」
「蔭が多すぎたし、地面は湿気がちだったんです。木の方にしたって、あんな所では、窮屈だったでしょう。あれほどの大木は、広い野原か山にあるべきではないでしょうか。そんなことを考えると、ここに家を建てたのが、ほんとはよくなかったんですね、あのまわりを広い空地にしておけば、木のためにも、人間のためにも、よかったと思います。」
「うむ、それは面白い意見だ。」
それきり、巳之助はなにか瞑想にでもはいりこんでいったようでした。幹夫は黙って控えていましたが、あまり沈黙が続くので、何気なく言いました。
「あの木を、お伐りになりますか。」
暫く間をおいて、巳之助は独語のように呟きました。
「伐ることにしよう。」
小春日和の暖い日でありました。天気も穏かで、柴田巳之助の容態も穏かでした。栗野老人が来たことを聞くと、柴田巳之助は自らちょっと逢いました。他人に逢う時にはいつもする通り、布団の上に坐り、脇息にもたれていました。
栗野老人は、鳶職の頭、というより寧ろ仕事師の頭で、柴田家には先代の時から出入りしていました。巳之助から応対正しく迎えられて、如何にも恐縮した様子で畳表を敷きつめた縁側に身を屈め、病気見舞の言葉を述べ立
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング