古木
――近代説話――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)八手《やつで》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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 終戦後、柴田巳之助は公職を去り、自宅に籠りがちな日々を送りました。隙に任せ、大政翼賛会を中心とした戦時中の記録を綴りかけましたが、それも物憂くて、筆は渋りがちでありました。一方、時勢を静観してみましたが、大きな転廻が感ぜられるだけで、将来の見通しは一向につきませんでした。そして索莫たる月日を過すうち、病気に罹りました。
 初めは、ちょっとした感冒だと思われましたが、やがて不規則な高熱が続き、それが少し鎮まる頃には、心臓の作用が常態を失していましたし、かねての糖尿病も悪化していました。医者は首を傾げました。
 鉤の手に建てられた家屋の、一番奥の室から、廊下を距てて、床高に作られた書院が、病間でありました。
 気分がよく天気もよい時、柴田巳之助は、障子を開け放させ、縁側の硝子戸ごしに、外を眺めました。ともすると、縁側近くに布団を移させることもありました。
 室の二方を取り廻した縁側の、その一方から、広い庭の片隅にある椎の大木が見えました。
 眼通り四抱えほどもあるその大木は、樹齢幾百年とも知れず、この辺一帯が藪の茂みであった昔から、亭々と聳え立っていたことでありましょう。横枝の拡がりはせいぜい十米ほどでありますが、高さはその三倍ちかくもあって、巨大な幹がすっくと伸びきり、梢近く朽ち折れて、空洞を幾つか拵えています。嘗て、市内の天然記念木指定が流行でありました頃、文部省関係の人が、指定に価すると讃美したことがありました。柴田巳之助はそれに乗らず、公木としてでなく、私木としての所有を誇りとしました。
 時勢の幾変遷に拘らず、この巨木はいつも泰然と中空に聳えていました。戦争末期、空襲による災害のため、各処に焼け跡が見らるるようになっても、この木の附近は無事でありました。梢近くの幹の空洞には、昔ながら椋鳥や雀が巣くって、朝夕は騒々しく飛び交い囀りました。或る時、飛行機から撒かれた電波妨害の錫箔が何かのために充分拡散せず、長く連続したまま団りあって落ちて来、それが、この木に引っかかりました。中空に聳えて、風にちらちらと葉裏を見せてる茂みに、頂から地面近くへと、幾筋もの銀箔が垂れ懸って、太陽の光にきらきら輝き、その間に椋鳥や雀が囀ってる様は、なにか祝典の樹のようでありました。そしてこの上空では、高射砲弾の炸裂の煙も、飛行雲も、B29[#「29」は縦中横]の姿も、すべてがゆったりとした美観を具えていました。
 そうした祝典も、やがて、局面が一変しました。或る夜深更、椎の木は火焔に包まれたのです。
 椎の木は、ちょっとした崖の縁に立っていました。その崖の下一帯が、焼夷弾の密集に見舞われました。蒼白い閃光に次いで、赤い焔が人家の軒先に流れ、あちこちから、どっと燃え上りました。風が加わると、それが一面の火焔となりました。
 火焔は崖に沿って巻き上りました。巻き上り巻き上り、高い火先は、逆に後ろへ巻き返しました。恰もこの崖のところへ、下からと上からと二つの逆風が合流してるような工合でした。或る寮になってる大きな建物から、最も大きな火焔が巻き上りました。それを、椎の木は真正面に受けとめました。
 椎の木は傲然とつっ立っていました。その茂みに沿って、火焔は高さを競うかのように巻き上りました。青葉の壁と火焔の壁と、すれすれに対抗しました。暫くすると、その二つの壁が密着し、ついで互に喰いこみました。一時は、青葉の壁が火焔の壁を抱き込んで制圧するかと思われました。その時、なにか深い戦慄が起りました。そして……それまで自若として抵抗し続けてきた椎の木が、俄に、葉から枝から幹までぼっと燃え上りました。だが、燃えてしまったというのではなく、焔に包まれたというが本当でありまして、やがてその焔も衰え、崖から巻き上る焔も衰えました。
 大火災の煌々たる明るみの後に、暫し暁闇がたゆたい、それから、煙と灰に空を蔽われてる盲いたような一日となりました。それは一日だけのことでしたが、椎の木にとっては、来る日来る日がすべてそうだったでありましょう。幹や枝は半面焦げ、葉は落ちつくし、ただ下枝の先にふしぎにも若葉が少し残ってるきりでした。椋鳥や雀もどこかへ逃げてしまいました。
 後日、植木屋が来た時、その意見では、この椎の木が生きるか死ぬか、全く不明だとのことでした。或は夏すぎて時ならぬ若芽を出すかも知れないが、それから先が全く分らないとのことでした。
 夏の陽が照り、秋の陽が照
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