てました。
 それを上から押っ被せるように、巳之助は言いました。
「実は、一つ厄介な仕事があるんでね、これは、植木屋にも棟梁にも手に負えまいから、頭《かしら》に引き受けて貰いたいんだが、どうだろう。」
 仕事のこととなると、栗野老人はきっと顔を挙げました。
「椎の木のことでございましょう。若旦那から承りました。」
 巳之助はじっと相手の顔を見ました。
「やってくれるかね。」
「お任せ下さい。伐り倒すばかりか、薪なら薪、木っ端なら木っ端と、お望み通りにこなして御覧に入れます。椎の木ってやつは、情けないもので、木材としての用には立ちませんな。ですが、あれが焼けちまったのは、残念でした。私共が赤ん坊の時から、今通りの大きさでしたから、どれぐらい年数を経たものでしょうか。この界隈の目標で、お邸の大黒柱でしたからな。あれが焼けちまったのも、まあ、お邸の身替りに立ったものと、そう思っちゃいますが、まったく、惜しいことをしました。あのままで、上枝をおろして、苔をつけさせ、蔦でも絡ませるのも、風流なものだろうと、若旦那にも申しあげましたが、そうした庭の造作には、なんとしてもちっとでかすぎて目立ちすぎますからな。却って目障りになるかも知れません。」
「ほかの樹木をいためないように、倒して貰いたいんだがね。」
「それはもう、充分心得ております。まず見当では、三回に伐りますかな。」
「それから、切株を、二三尺残しておいてほしいね。」
「なるほど、面白いお考えですな、大丈夫、まっ平らにして、磨きをかけましょう。そこに餉台をだして、座布団を敷いて晩酌を一二本……いいですなあ、崖の上なもんで、いつも凉しい風がございますよ。中に空洞さえなければ、申し分ありませんが、勢《せい》のいい木でしたから、案ずるほどのことはありますまい。切株を二三尺。なるほど、わたくしもそこまでは考えませんでした。」
「それだけだ。頼むよ。」
「宜しゅうございます。」
 栗野老人は巳之助の顔色を窺いました。なにやら苦悩めいた表情がありました。それを見て取って、栗野老人は辞し去りました。
 巳之助はなお暫く坐っていました。頬の肉に軽く震えが来て、額が汗ばんでいました。栗野老人の饒舌などは上の空に聞き流していましたが、椎の木の伐採を頼む自分の言葉が、胸にひしと反響する心地で、それに沈湎してゆきました。
 付添いの看護婦に促されて、巳之助は我に返り、床に就きました。湯たんぽを入れた足先になお冷たい感じがあり、胸元に熱苦しい感じがありました。それを意識から追い払うようにして、椎の木をじっと眺めました。裸の枝、黒ずんだ巨幹、それが中空に突き立ってる静けさのうちに、枯死の寂寥と寒冷とが籠っていました。
 ――俺はあの椎の木に、甘えてるのであろうか、それとも抵抗してるのであろうか。恐らく両方だ。死を予感する思いは、あれに甘え、その予感を克服しようとする思いは、あれに抵抗する。両者が融合する安らかな境地は、どこに見出さるるであろうか。あれを伐り倒した後の空間に、果してそれが見出さるるであろうか。それはちょっと予想のつかない空間だ。驚異を秘めてるような空間だ。
 ――あの椎の木には空間が足りなかったと、幹夫は言った。或はそうであろう。火災に焼けたというよりも、空間の不足に窒息したのだとも言える。椎の木ばかりではない。俺の生涯にも空間が足りなかった。官界にも政界にも空間が足りなかった。殊に俺が最も働いた大政翼賛会には空間が足りず、今から顧みても息苦しいようだった。現に俺の家だって空間が足りない。千代子一家の者が同居しているし、中村家の者も同居している。一日中、互に鼻を突き合さんばかりの有様だ。日本全体に空間が足りない。然し、この種の空間は、単に空気と言ってもよいほどのものに過ぎない。俺が今想見している空間は、なにか神秘な、深いそして高いもの、生命とじかに関わりのあるものなのだ。それが、あの椎の木を通して、そこに、あすこに在る……。
 柴田巳之助はそこを覗きこんで、昏迷した心地になりました。そしてうとうとと、夢とも現とも分らない状態に沈んでゆきました。
 彼が安らかに眠ってるものと思って、看護婦は席を立って、ちょっと母屋の方へ行きました。
 それと殆んど入れ代りに、千代子の娘の美智子が、そっと縁側からはいって来ました。
 髪をおかっぱにした、眼の大きな、この子供は、お祖父さまに馴れ親しんでいました。お祖父さまが病気になって寝ついてからも、よく病室にやって来ました。病室にはたいてい、なにかおいしい物がありました。
 いま、お祖父さまは、一人きりでした。静かに寝ていました。その禿げた頭だけが、枕の上に、つやつやと光っていました。それを、美智子はふしぎそうにじっと眺めました。
 やがて、美智子は寄ってゆきました
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