をどうするんです。」
「大事にしまっとくの。」
「そんなことをすると、本当に叱られますよ。」
「大丈夫。誰も知らないから。」
「でも、枕頭に置いて寝たんでしょう。」
「いいえ。」
「ではどうしたんです。」
「誰にも分らないように、あたし、抱いて寝たの。」
「え、刀を抱いて寝たんですか。」
「ええ、毎晩抱いて寝て、朝になるとそっとしまっといたの。」[#「しまっといたの。」」は底本では「しまっといたの」]
「どこに。」
「そこの、三畳の、あなたの押入の中に。」
嬉しそうな笑顔をして、眼をぱちぱちやってみせた。
「そんなことをしたので、私が刀のことをきいても黙ってたんですね。」
うそうそ笑いながら、ふいに彼の首へ飛びついて来た。
「ねえ、あれあたしに頂戴ね。」
「上げてもいいけれど……。」
「下さるの。嬉しい。」
彼の首をきゅーっと抱きしめて、それからひょいと飛びのいて、縁側の手摺を力一杯に揺っていた。
母親に似た顔立で、円いくるくるとした輪廓だったが、母親よりも口元が引緊って、睫《まつげ》の長い[#「睫《まつげ》の長い」は底本では「睫|の長《まつげ》い」]眼が澄んで光っていた。耳の根本に小さな黒子があった。
「あら、ここから見ると、あの井戸は綺麗ね。」
いつもよく見てるくせに、初めて見るもののように、眼を見張った。
「あれからお化が出るんですよ。」
彼は初め冗談を云ってみた。
「いやーだ。」
「だって出たでしょう。」
「嘘、嘘。」
彼のところへ飛んで来て口を押えた。
「あたし、これから勉強するの。分らないところ教えて頂戴、ね。」
「ええ。」
そんなことから、光子は始終二階にやって来るようになった。そして呼ばれるまでは降りていかなかった。どうかすると、呼ばれてもなかなか立上ろうとしなかった。
「叱られやしませんか。」
「いいのよ。構やしないわ」
快活になると共に、母親を馬鹿にするような素振を見せ出した。ばかりでなく、父親をも軽んじ初めたようだった。
彼は不思議な気持で、その様子を見守っていた。
松木は帰って来て光子が見えないと、階下から大きな声で呼び立てた。
「そら。」
皮肉な笑顔をして光子は降りていったが、夜になるとまた、松木が茶の間に控えている前も平気で、二階の方にやって来ることがあった。
「あたし、お父さんと喧嘩してやったの。」
「お父さんと……。」
彼は驚いて、彼女の得意げな顔を見つめた。
「ええ。だってひどいんですもの。二階に上っちゃいけないと云ったり、二階に上りっきりで降りてきちゃいけないと云ったり……。あたし口惜しいから、井戸に飛びこんでやるって、庭に駆け出してみせたの。」
「なんでまたそんな喧嘩をしたんです。」
「分らないわ。お前のような親不孝者はないって、拳骨を振上げなすったから、あたし井戸のところまで駆けていってやったの。」
彼は別に気にもかけずに聞き流したが、光子が時々井戸に飛び込むと云って駆け出すことがあるのを、房子から聞いて喫驚した。
「何か気に入らないことがあると、じきにそうなんです。本当に飛び込みもしますまいけれど、それでも心配になりましてね。」
房子は大事な秘密をでも洩すもののように、声をひそめていた。
ところが、或る晩、本当に騒ぎがもち上った。
十時過ぎのことだった。突然、階下で大きな人声と物音とが起った。それから一寸ひっそりしたかと思うと、庭の方に慌しい足音がした。
彼はぎくりとして、駆け降りていった。
奥の座敷の真中に、松木がつっ立っていた。眼をぎろぎろさして、顔色を変えていた。
「どうしたんです。」
咄嗟に彼はそう尋ねかけたが、松木は返辞をしなかった。そして、雨戸を一杯繰り開いて、庭へ下りていった。彼も後から続いた。
房子が、庭の中をあちらこちら物色していた。
「どうなすったんです。」
「只今、光子が、井戸に飛びこむって、裏口から駆けだしましてね……。」
後は云わないで、そこらをうろうろし初めた。
月の光りもなく、庭の中は真暗だった。座敷からさしてる電燈の光が、雨戸一枚だけの広さにぱっと、植込みの茂みに流れかかっていた。
井戸の中を覗いて見ても、茂みの中を透し見ても、光子の影らしいものは見当らなかった。
初めの慌てた気持が静まってくると、三人はぼんやり庭の中につっ立った。
「馬鹿な、すぐ井戸の中に飛び込むものか。」
突然響いた松木の腹立たしい声が、彼の頭にぶつかった。彼はかっとなった。
「そんな……そんなことを云ってる場合じゃありません。」
暗闇の中で、二人は顔をつき合してつっ立った。一秒……二秒……すぎた。彼はぶるぶると震えた。
「ふん、余り逆上《のぼ》せきって、図々しいにも程がある。」
云いすてて松木は、くるりと背を向けて、座敷の方へ歩き出した。
彼は石のように固くなった。声が出なかった。拳を握りしめてつっ立っていた。
その袖を、房子が捉えた。
「あなた、どうか……。宅は今気が立ってるところですから……。」
彼女のおどおどした様子に、彼は夢からさめたように我に返った。
「もう何にも仰言らないで……。それより光子の方が……。」
然し彼の頭は、俄にはっきりしてきて、松木から投げつけられた言葉が、胸一杯になっていた。
黙って足を返して、松木と反対に裏口の方からはいろうとすると、その板敷の上に小さな足跡が、黒い泥跡を残していた。彼は立止ってぼんやりそれを眺めた。
後からついて来た房子も、殆んど同時に足跡に気付いた。
「あ、これです、屹度。家にはいったのでしょう。」
彼は咄嗟に直覚した。いきなり駆け出して、二階に上ってみると、そこの三畳の方の隅に、光子は小さくなっていた。
彼は惘然とつっ立った。その膝頭へ、光子はふいに泣き出して取縋ってきた。
そこへ房子もやって来た。
「まあ! お前は。」
後は言葉がなかった。
彼はがくりとそこに屈んで光子の頭を撫でてやった。
房子が光子をなだめすかして、無理に階下へ連れてゆくまで、彼は一言も口を利かなかった。一人になると、押入を開いてみた。奥の方に、短刀は隠されたままになっていた。
彼はほっと息をして、六畳の方へ戻って、机の上に両肱をつき、頭をかかえた。
松木から真正面に投げつけられた言葉が、次第にはっきりした意味をとってきた。彼は自分と光子との間柄を考え廻して、自ら驚いて顔を挙げた。
真暗な夜の空に、星が粗らに光っていた。
下宿を変ろう。そう思いついて、まだ決心したともしないとも分らないうちに、眼の中が熱く涙ぐんできた。そしてまた机の上に頭をかかえた。
九
からりと晴れた初秋の麗かな朝日が、縁側一杯に当っていた。彼はそこに全身を投げ出して、今後の処置を思い煩っていた。
昨夜のことはけろりと忘れはてたような、晴れやかな顔をして、光子がとんとんと階段を上って来た。が、彼女はすぐに彼の顔色を見てとって、一寸立止った。その立姿が、すっと伸びて、まだ更に伸び上ろうとしてるかのようだった。
「光子さん。」
そう彼は呼びかけながら、半身を起した。
「なあに。」
じっと見つめると、その敏感な眼付と耳の根本の黒子とが、今迄気付かなかった大人びた魅惑を持っていた。
「私は一寸都合があって、よそへ越すかも知れませんが……。」
「え、なぜ。」
「なぜでも……。」
眼の光だけが機敏に働いて、其他は全く子供らしく、ひょいと彼の肩につかまってきた。
「いや、越しちゃいや。あたしいやよ。」
「そんな、むちゃを云ったって……。」
「いいえ、いやよ。あたし一人になってしまうんですもの。……お越しなさるなら、あたしもついていくわ。」
「ついて来てどうするんです。」
「だって、あたし困るわ。一人っきりで……。」
「お父さんやお母さんがいるじゃありませんか。」
「いたって、やっぱり一人っきりよ。」
「そんなむちゃな……。」
「いいえ、いやよ、どうしたっていやよ。」
光子は彼の肩を揺ぶり初めた。
「いいわ、そんならあたし、本当に井戸に飛びこんじまうから。」
「そして二階の三畳に隠れるんでしょう。」
「ええ、そうよ。」
急に真剣な語気になって、彼女は眼をぎらぎら光らしてきた。
「どうしたんです。」
彼女は黙っていた。
「怒ったんですか。」
「もういいわ、あたし、本当に飛び込んじまうから。」
眉根をぴりぴり動かしてるその様子を、彼は胸にぎくりと受けた。危いというよりも、何だかえたいの知れないものが彼女のうちに渦巻いてるようだった。彼女は一心に思いつめたように黙っていた。
「あのね、いろいろ考えたけれど、どうしてもここの家にいては悪いような気がするんです。そんなこと、今に分るようになります。ねえ、越したって時々遊びに来るから、いいでしょう。」
「いやよ。」
きっぱり云ってのけて、彼女はまた黙りこんでしまった。
「じゃあ、どうすればいいんです。」
「家にいるの、いつまでもいるのよ。」
彼は吐息をついた。どうにも仕方がなかった。と暫くして、光子はふいに泣声になった。
「いやよ、どうしたっていや。ねえ、あたし、悪いことがあったら謝るわ。御免なさい。もう井戸に飛び込むなんて云わないわ。」
「だって、お父さんが何か云ったでしょう。」
「ええ、ひどいことを云ったのよ。だからあたし、机を放り出して駆け出してやったの。」
「どんなことを云われたんです。」
「あたし達があんまり仲がよすぎるって、そして……夫婦気取りでいるって……。」
「え、そんなことを云われたんですか。」
「ええ。あたし、腹が立ってむちゃくちゃになったけれど……もう平気だわ。お父さんなんか何と云おうと、構やしないわ。」
何の恥らいの色もなく、じいっと見入ってきたその素純な眼付の前に、彼は次第に顔を伏せてしまった。と、頭の中がぱっと明るくなった。
「そうだ……越すのは止しましょう。」
彼女はにっこりして、首肯いてみせた。
「私は馬鹿なことを考えていたんです。」
「何のこと。」
見入ってくる彼女を引寄せて、その額にそっと唇を押しあてた。彼女はじっとしていた。
「どんなことがあっても平気でいましょう。」
「ええ、あたし平気だわ。」
彼は晴れ晴れとした朝日の光を見やりながら、両手の拳を握りしめた。
けれど、光子が階下に降りてゆくと、彼はまた不安な焦燥に駆られ初めた。光子が一緒にいる間は、平然とした晴れやかな気持だったが、一人きりになると、凡てが陰欝に曇ってきた。
彼は室の中をぐるぐる歩き廻りながら、我を忘れかけることが多かった。
十
彼は騒ぎの夜以来、松木とは一言も言葉を交えなかった。顔を合せることさえ出来るだけ避けた。房子とも余り口を利かなかった。房子の方も変に黙っていた。
松木は昼間時々帰ってきては、やはり庭の井戸端で背中の汗を拭うことがあった。汗深いため残暑になやんでるらしかった。
そういう松木の姿を見ることが、彼には一番堪え難かった。見まいとしても、二階からすぐに見下せた。彼はわざと障子を閉め切って、反対の隅の方に寝そべった。それでも、車井戸の音ははっきり聞えてきた。
俺は何でこんなに焦燥してるんだ、と自ら尋ねかけても、はっきりした答は得られなかった。
松木が光子の父であることがいけないのか……大悪人でも善人でもなく、ただ小策ばかりの没感情的や凡人であることがいけないのか……いや、彼の存在そのものが彼には堪え難かった。
そういう憎しみはどこから来るか分らないものだった。口論をしたり殴合いをしたりした後の憎しみならば、まだどうとでもなるが、面と向っては口が利けない根本的の憎悪は、どうにも出来なかった。
先夜、庭の暗がりで向き合った時、心のどこかに殺意が動きかけたことを、彼は後になってはっきり思い出した。気持が欝積してくると、今にも何かが破裂するかも知れないような気がした。夜分、松木が階下の室に控えていたり、同じ屋根の下に眠っていたりするのへ、意識が働きかけてゆくと、彼はじっとしてお
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