れない衝動を感じた。
そういう危い気持から遁れるために、彼はしきりと光子を求めた。何だかヒステリックなそして晴れやかなものを持ってる光子に、彼は次第に深く囚えられていった。恋愛でもなく、憐憫でもなく、訳の分らない感情だった。
「お父さんを好きですか。」
「嫌いよ。」
「お母さんは。」
「好きでも嫌いでもないわ。」
そして眼をきらきらとさせる光子を、彼は膝の上に抱いてやった。
「私がどこかへ行こうと云えば、どこへでもついて来ますか。」
「ええ、いくわ。」
「どんなところへでも。」
「ええ。」
二人で遠くへ逃げ出すのが唯一の途かも知れない、などと彼は考えた。然しまた、松木に対する訳の分らない憎悪の念が、却って彼を家の中に引止めた。
松木が生きてる以上は……と彼は歯をくいしばった。
そして彼が自分一人の気持に悶えているうちに、光子は急に病気になって、寝ついてしまった。
快活に晴れやかにしてたところに、俄の病気なので、皆喫驚した。何の病気とも分らなかった。内部にはどこも故障はないと医者は云った。神経のせいかも知れないそうだった。
食慾がなく、元気がなく、頭を重く枕につけて、大きな眼をぱっちり見開いていた。どこが苦しいかと聞いても、どこも何ともないと答えた。精力がつきたようになりながら、少しも眠らないで眼を見開いていた。眼瞼を閉すことがあっても、ふいに大きく見開くのだった。
「元気を出さなきゃいけません。しっかりするんです。私がついててあげるから。」
彼がそう云うと、彼女は弱々しい笑みを浮べて、枕の上で大きく首肯いてみせた。
そして彼が一寸でも坐を立つと、すぐにまた呼び寄せた。
「ついてて、ねえ。」
然し別に話はしたがらなかった。何を云っても簡単な返辞をするきりで、黙って時々微笑むのだった。彼は書物を持ってきて、彼女の近くに寝そべりながら読んだ。
房子は呑気に構えこんで、光子のことは彼に任せきりだった。彼は腹立たしく思ったが、口に出しては云わなかった。
二三日目から、松木がひどく不安げに沈み込んで、外へも余り出なくなった。初めは、彼が座敷にいる間は茶の間の方に避けていたが、やがては黙ってはいり込んできて、彼と遠い隅の方に坐って、煙草を吹かしたり書類を見たりしだした。然し絶えず光子の方に気をとられてることは、その様子で明かだった。
それが彼には最もひどい苦痛だった。光子は父親が来ると眼をじろりとさしたが、それからすぐに、全く無関心な様子に返っていった。然し彼が出て行って暫くやって来ないと、すぐ呼びたてた。彼は息をつめながら、松木が控えている室にはいって来なければならなかった。そしていくら我慢をしても、松木の存在の方へ次第に意識がねじ向けられていった。じりじりと汗がにじみ出すような気持だった。どうしてそう松木の存在が気になるか、どうしてそう憎まずにはいられないか、自分でも分らなかった。余り苦しくなると、彼はわざと光子の方へ寄っていって、話をしようとしたが光子は口を利くのを喜ばない風だった。時々見せる微笑も次第に消えて、天井ばかり見つめていて、それから眼瞼を閉じた。暫くたつと、大きな露わな眼で、彼の方をじっと眺めていた。彼が見返すと、微笑らしい影を頬に浮べた。
光子のために松木の存在なんか無視してやれ、とそう彼は心の中で誓った。然しやがてまた、じりじりと気持が欝積してきて、どんなことになるか分らなくなった。光子と親子だということが、堪えがたい圧迫となってきた。
彼は光子の手を握ってやって、表面に光の浮いた大きな奥深い眼を覗きこんで、その中に自分の心を溺らそうとした。
光子の容態は、良いとも悪いともつかず、何等の変化も見せなかった。同じような昼と夜とが続いた。
五日目頃から、光子の顔は急に輝いたり曇ったりし初めた。長く笑顔を続けてるかと思うと、また涙ぐんでいたりした。
彼は心配しだした。夜遅くまでついていた。他に名医を迎えたらどうかと、房子に云ってもみた。
「いや、気力が出て来たのだ。心配のことはない。」
眉根を曇らしている房子へ、松木は平然と云った。それを聞くと彼はかっとなった。
「然し何だか……。手後れになっても構わないんですか。」
「大丈夫です。」
彼は坐り直して、松木の方へ向き返った。松木もじっと彼の方を見ていた。そして二人は長い間対坐していた。彼は息苦しくなって、我を忘れかけようとしてはまたはっとした。しまいには何もかもぼんやりしてしまった。眼に一杯涙が出ていた。
「片山さん。」
呼びかけられて彼は顔を挙げた。松木が震える手に厚紙を持って、彼につきつけていた。
「光子は大丈夫です。よくなったら、あなたがどこかへ転地にでもお連れなすって下さい。私とはどうも、あなたも光子も性分が合わないようです。これをあなたへお預けしておきますから……。」
松木の顔は、醜くどす黒く艶が失せて、眼ばかりぎょろりと光っていた。差出されたのは郵便貯金通帳で、光子の名前で千円近くになっていた。
彼は喉がつまって言葉が出なかった。振向くと、光子はきょとんとした眼付で、不思議そうに二人の様子を見ていた。
彼は坐に堪らなくなって、貯金通帳を松木に投げつけながら、庭に出ていった。泣きたいのか笑いたいのか分らない、もやもやっとした茫とした気持で、気が遠くなりそうだった。井戸のところへ行って、水を汲み上げて、頭にぶっかけてやった。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
1925(大正14)年10月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
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