古井戸
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)土竜《もぐら》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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      一

 初めは相当に拵えられたものらしいが、長く人の手がはいらないで、大小さまざまの植込が生い茂ってる、二十坪ばかりの薄暗い庭だった。その奥の、隣家との境の板塀寄りに、円い自然石が据っていた。
「今時、これほどの庭でもついてる借家はなかなかございませんよ。それですから、家は古くて汚いんですけれど、辛棒して住っておりますの。」
「そうですね。手を入れないで茂るに任してあるところが却って……。それに、あの奥の円い石が一寸面白いですね。」
 そんな風に、彼は主婦の房子と話したことがあった。
 その円い自然石の側に、梅雨の頃、いつとはなしに、軽い地崩れがして穴があき、それが次第に大きくなっていって、流れこむ雨水をどくどくと、底知れぬ深みへ吸い込んでるようだった。
「片山さん……こんな大きな穴が……。いつ出来たのでしょう。」
 梅雨あけの爽かな朝日を受けて、房子が箒片手に、こちらを振向いていた。
「今気がつかれたんですか。呑気ですね。」
 縁側から庭下駄をつっかけて、彼はわざわざやって行った。
 が、よく見ると、石の側にぱくりと口を開いて、斜めに深くおりていってる穴は、広さはさほどでもないが、何だか大きな洞窟の一部分とでもいうような、測り知られぬ感じを持っていた。その上、穴の口から大きく半円を描いて、二筋三筋断続した地割れがしていた。
「土竜《もぐら》のせいでしょうか。」
「さあ、土竜にしちゃあ……。」
「では……。」
「何だかえたいの知れない穴ですね。」
「ええ、気味の悪い……。これからせっせと塵芥《ごみ》を掃きこんで、埋めてやりましょう。」
 然し、彼女が時折掃き込む塵芥では、なかなか埋まりそうもなかった。一時口が塞ったかと思うと、次の降雨の後には、またぱくりと口を開いていた。
 彼は何故ともなく、その穴と穴の上の自然石とに、注意を惹かれていった。
 二抱えほどの、ただ円っこい普通の石だったが、木石の配置上そこに据えられたものではなく、掘り出されたのか転ってきたのかをそのまま投ってあるような、不自然な位置を占めていた。その石から一二尺離れて、半円形に断続の地割れがして、その一端に、一尺足らずの細長い穴が、斜めに深く、横広がりにあいていた。棒を突込むと、柔かな泥の感じでずるずるはいりこんで、それから先は石の壁のような固いものにつき当った。穴の周囲を足で踏むと、石との間の地面だけが、五寸ばかり崩れ凹んだ。石の下深く、大きな洞窟にでもなってるかのようだった。
「片山さん、何してるの。」
 或る時、娘の光子が、家の中から見付けてやって来た。
「あら。」
 大きくなった穴と彼の顔とを、じろじろ見比べていたが、俄に真面目な顔付になった。
「そんなことをすると、お父さんに叱られるわよ。」
「え、どうして。」
「危いんですって。」
「なぜ。」
「なぜだか……この辺で悪戯《いたずら》をしちゃいけないって、お父さんがそう仰言ったの。」
「じゃあ、この石の下に何かあるの。」
「知らないわ。」
 光子は実際何にも知らないらしかった。
 彼は棒を投げすてて、首を傾げた。

      二

 ――或るところで、古金銀貨幣、時価約三千円ほどのものを、庭の隅から掘り出した。維新当時、壺に納めて埋めてあったものらしい。
 そういう新聞記事を、彼は二階の室に寝そべって、心の中で繰り返していた。馬鹿馬鹿しいが、それだけにまた空想を誘われた。
 ふと、半身を起して眺めると、檜葉や椿の茂みごしに、庭の奥の穴のところに、人影が動いていた。彼が幾度かなしたと同じように、棒切で穴の底をつついてみたり、穴のまわりを踏んでみたりしている。それが、主人の松木庄作だった。
 ははあ………という気持と、太い奴だ……という気持とで、彼はのっそり立上って、階下の縁側へ降りていった。
 庭の植込の影から、松木は陰欝な顔付でやって来た。朝早くから何処へともなく出かけて行き、夜分になって帰って来て、訳の分らない書類と睥めっこをしてる、いつもの通りの顔付だった。
「今日はお出かけじゃないんですか。」
「ええ。」
 ぶっきら棒な返事だけで、縁側に来て腰をかけた。
「何でしょう、あの向うの穴は。」
「さあー、土竜か何か……。」
 事もなげに答えて、彼の顔をじろりと見た。が暫くすると、ふいに口を開いた。
「あの分だと、上の石がめり込んでしまうかも知れません。」
「いい石ですね。」
「何に使ったものですか……惜しい石ですよ。あれくらい大きな、自然に円みのある石は、なかなか安かありません。惜しいものです。」
 そしてまた彼の顔をじろりと見た。その眼付が、いつぞや、格安の売物だが知人に買手はないだろうかと、住宅の図面を二三枚彼に見せた時のそれと、同じように底光りがしていた。
「じゃあ、わきにどけたらどうでしょう。」
 彼もちらと松木の顔を見返した。
「二人で動かせますかね。」
「大丈夫です、あれくらいの石なら……。」
 石が問題じゃない、後が見物《みもの》だ、と思って、彼は勢よく跣足で飛び下りた。
 鉄棒、荒縄、鍬そんなものが用意された。
 石は半ば土に埋ってるように見えたが、案外底が平らで、実は地面にのっかってるだけだった。深く掘る必要はなかった。然し、鉄棒を梃《てこ》にして押し動かそうとすると、そこの地面が崩れ落ちたり、足がめいり込んだりして、一寸困難だった。がそれが却って仕合せで、荒縄を下から通すことが出来て、二人で運び動かせた。
 ほっと息をついて、見ると、思いもよらない大きな穴が、宛も陥没地のような風に、縁に一尺ばかりの断層を見せて、そこに口を開いていた。
「一体何でしょう、ここは……。」
 彼はちらと松木の顔を見やった。
「池でも埋めた跡ですかな。」
 松木はそっぽを向いて、額の汗を拭いていた。
「それにしても……。」
 方々を力足で踏んで見ると、陥没の範囲が次第に大きくなっていった。
「掘ってみましょうか。」
「さあーうっかり手をつけて……。」
「なあに、御自分の庭じゃありませんか。金魚池でも掘るつもりにすりゃあ……。」
 松木はじろりと彼の顔を見た。
「なるほど、金魚池……。」一寸間を置いてから早口に云い初めた。「光子が金魚が好きでしてね。随分買ってやったものですが、何しろ硝子の容物《いれもの》でしょう、じきに死んでしまうので、それきり一切金魚は止めましたが、ここに池を掘ってやりゃあ、そんなこともありますまい。なに訳はありませんよ。私一人で充分です。この通りもう崩れかかってる地面ですからね。……だが、まあ立合ってみて下さい。もし白骨でも出て来ると、厄介ですから……。実際えたいの知れない穴で……あなたが立合っていて下されば安心です。」
 縁側の方へ小走りに馳けていって、着物を脱ぎすてて、褌一つきりになって戻って来た。
 彼は鉄棒を持って、移し動かした石に腰をかけていた。
 松木は穴の中に踏みこんで、その縁から次第に掘り拡げていった。案外隆々とした筋肉の上に、茂みを洩れてくる日の光が、明るく躍りはねた。発掘は容易らしく、上層の固い地面以外は、みな柔かな黒土で、膝頭ほどの深さになっても同じような土ばかりだった。穴はどこへいったか、掘り荒されて分らなかったが、やがて、がちりと鍬の先に音がして、小石交りの層となった。
「ほう、これは……。」
 汗にまみれて、鍬の柄を杖につっ立った松木の眼は、異様に光っていた。
「いやに小石がつめてありますね。」
 彼も思わず眼を光らして覗き込んだ。
「そしていやに固まってるんで……。」
 小石の層に添って、松木は益々掘り進んでいった。それが次第に円く、径四五尺の円となった。周囲はみな小石がつまって固く、中だけ新らしい黒土で柔かだった。それを膝頭の上まで掘り下げた時、松木は穴から飛び出して、暫く首をひねって考えた。
「これは……何ですよ、屹度、古井戸の跡ですよ。」
「え、古井戸。」
 彼も立上って穴を覗いた。
「古井戸を埋めた跡です。」
 云われてみれば、全くそれに違いないらしかった。
「じゃあ、いくら掘っても駄目ですね。」
「駄目です。」
 うっかり云って顔を見合った。瞬間に、松木はひどく兇悪な表情をしたが、次にはアハハと高笑いをした。
「古井戸の上に金魚池を掘ろうとしたところで、とても……。」
 駄目だ、とはさすがに云いかねたものか、ぷつりと口を噤んで、それから急に腹立ったらしく、掘り起した黒土を元通り直しにかかった。
 土がすっかり元に直るまで、松木は一休みもしなかった。朝日の光を受けてる、その脂ぎった体力のよさを、彼は皮肉な眼で眺めていたが、何故だか、自分自身も一寸気持が納まりかねた。
 掘り返されたためか、土の不足も見せないで、地面は平らになった。
「ついでに一寸手伝って頂きましょうか。」
 松木はいきなりそう云い被せて、彼に手伝わせながら、円い自然石を庭の程よいところに据えた。それから更に不機嫌そうに、裏口の方へ行ってしまった。
 松木が手足を洗って銭湯へ出かけた後まで、彼は縁側に腰掛けて、ぼんやり煙草を吹かしていた。
 そこへ、房子がやって来た。
「あの穴は、何だかお分りになりましたの。」
「え、松木さんは何とも仰言らなかったんですか。」
「ええ、宅はいつでも、何にも聞かしてはくれませんし、わたしも別段……。」
「へえー。不思議ですね。」
 どこが不思議だというような面持で、彼女はまた尋ねた。
「そして、あの穴は……。」
「古井戸を埋めた跡だそうです。」
「古井戸、」と一寸眼を見開いた。「そう分れば、安心ですわ。」
「安心ですって。」
「ええ、わたしはまた、お墓の跡ででもあると困ると思って……。」
 善良そうな眼で庭の方を透し見ていた。
 ククク……と彼は突然笑い出した。
「あら、何を笑っていらっしゃるの。」
 千三《せんみつ》や……と云っても、万に三つも当るかどうか分らない松木が、宝を掘出しそこねて腹を立てたことと、何にも知らないでいる細君が、古井戸の跡と聞いて安心したこととが、変に対照をなして、納まりかねてた彼の気持を落付かした。
 彼はまた、ククク……と独笑いをした。

      三

 ふうわりと土を被せた古井戸の跡は、降雨の度に少しずつ凹みながらも、もう穴を開くようなことはなかった。そして円い自然石だけが、荒れた庭の真中に、得意然と構えていた。
 彼はいつしか、古井戸のことを忘れかけた。ところが、その秋の或る夜、怪しい夢をみた。
 ――何処だか分らない、或る床の高い縁側に腰掛けていた。前は広々とした庭で、築山や植込の模様から配石の工合まで、昔の大名の屋敷を思わせるものがあった。その庭の真中に、井戸があった。おや、と思って見たとたんに、井戸の真上に、車巻の枠の上に、若い女が腰掛けている。着物は分らなかったが、高島田に結った綺麗な女で、彼の方を見てにこにこ笑っている。お転婆な女だなと思って、彼は二口三口からかいかけた。何と云ったのか文句は覚えていないが、女がなおにこにこしているので、次第にひどい悪口を云い初めた。するうち、女は俄にきりっと眉を逆立てて、「何を!」と男のような声で怒鳴りつけて、井戸枠からするすると下りて、真直にやって来る。彼は逃げようとしたが、どうしても身体が動かない。もう女は眼の前にやって来て、彼の着物の襟を掴んで、締めつけ初めた。馬鹿に大きな力で、大磐石にでも押えつけられたようで、いくら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いても、身動きさえも出来なかった。女はなおも襟元をしめつけながら、ぐいぐいと押してくる。彼は縁側の柱に押しつけられ、息がつまり、身体がひしゃげ、苦しさにむーとこらえた、とたんに、ほーとし
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