浅黒い松木の顔を、彼は遠くから睥みつけてやった。そして井戸には近寄らなかった。
 井戸はいろんなことに利用され初めた。ビールや西瓜や其他さまざまのものを吊して冷す、大きな笊が用意されたし、水は庭の撒水に使われた。松木は毎朝井戸水で顔を洗った。
 松木は昼間不意に帰ってきて、背中の汗を井戸水で拭いて、また何処へともなく飛び出してゆくことがあった。その姿を二階の縁側から認めると、彼は慌てて障子の影に隠れた。
 大きな楓の木影が、ちらちらと日光の斑点を交えて落ちてる、新らしい井戸端で、胴のでっぷりした足の短い、猿股一つの松木の身体が冷かな井戸水を含んだ手拭で、きゅっきゅっと拭かれてるのを、檜葉の植込越しに見ると、彼は云い知れぬ憤慨の念を覚えた。松木の脂ぎった汗が、楓の木影や新らしい井戸端を汚すもののように思えたばかりでなく、考えたくないいろんなことが、一時に頭へ上ってきた。
 然し彼はどうすることも出来なかった。松木の裸体を避けて、障子の影で一人憤慨した。
 ただ彼が多少心嬉しかったことには、光子は少しも井戸に近寄らないで、一人離れて考えこんでることが多かった。よく二階に上ってきて、彼の側に黙ってついていることがあった。彼はそうして彼女と二人で、話も遊びもしないで、ぼんやりしてることが好きになった。

      六

 光子は次第に痩せ細ってゆくようだった。殊に顔色が目立って蒼ざめ、額から頬へかけた皮膚が総毛立ったようになり、眼が黒ずんで変に光っていた。時折、動物園や植物園なんかに連れ出しても、余り喜ばなかった。
 彼は心配して、加減でも悪いのかと度々尋ねた。然し彼女は黙って頭を振るばかりだった。
「どこも何ともないわ。」
 しまいにそう云って、淡い微笑を浮べた。
 そういう光子の様子に、房子も心配し初めたらしかった。そして或る時、どうも光子が夜中によく起きるらしいと、不思議そうに彼へ話した。
 彼は驚いた。そしてなおよく尋ねたが、房子の話は更に要領を得なかった。夜中に、ひょいと布団の上に坐ることがあるけれど、それも夢中にするのらしく、またおとなしく寝てしまうのだと、ただそれだけのことだった。
「わたしがいくら聞いても、何とも云いませから、あなたから聞きただして頂けませんでしょうか。」
「そうですね……。」
 彼は曖昧な返辞をしたが、しきりに気掛りになってきた。然し光子にいくら聞いても、はっきりした答は得られなかった。
 ところが、雨のしとしと降る或る夕方、光子は彼を階下の縁側でふいにつかまえた。
「あたし恐いわ。」
「え、何が。」
「あすこが開いてるから。」
 彼女の指さす方を見ると縁側の、欄間の板に二三寸隙間が出来ていた。
「寝てると、夜中にあすこから、外が見えるの。」
 彼は初めてそれと悟って、房子から木片を探し出して貰って、欄間の隙間を塞いでやった。
「これでいいでしょう。」
「ええ。」
 首肯いた光子を、彼は二階に連れて行って、ゆっくりいろんなことを尋ね初めた。光子はぽつりぽつり話してきかした。やはり、夜中に変な夢をみるのだそうだった。
「何だか、井戸の辺から、真黒なものがやって来るようなの。」
 夢というのはそれきりらしかったが、その夢をみると、いつまでも眠れないそうだった。
「なぜお母さんにそう云わないんですか。」
「だって……。」
「そんな時には、お母さんを起すんですよ。」
「だって……叱られるんですもの。」
「叱られたことがあるんですか。」
「ええ、お父さんに。」
「どうして……。」
「あたし夢をみて、それから眠られなくなって、布団の上に坐ってると、お父さんがふいに起き上って、恐い目で睥みなすったの。夢をみて眠られないからって云うと、もう夢なんかみなくってもいいから、さっさっと寝ておしまいって……こんどからそんなことをすると、ひどい目に逢わしてやるって……。それであたしびっくりして、布団の中に頭からもぐりこんでしまったの。」
「お父さんがそんなことを云われたんですか。」
「ええ。だからあたし、いくら夢をみて眠られないでも、じっと我慢してるの。」
「どうしてまた、早く私に云わなかったんです。いくら聞いても隠してばかりいて……。これから何でも云うんですよ。」
「ええ。だって……。」
「なあに……。」
「お父さんが……。」
「何か仰言ったんですか。」
「ええ、あの、こないだ、お爺さんに云ったでしょう、恐い夢をみるって、嘘をついて……。あのことをあたしが云いつけたって、恐って[#「恐って」はママ]いらしたの。そして、これから片山さんに何か云いつけたら、ひどい目に逢わせるって……。」
「でも、私に饒舌ったと、お父さんに云ったんですか。」
「いいえ。」
「じゃあ、お母さんに……。」
「いいえ、誰にも云やしないわ。」
「それじゃあ、どうしてお父さんに分ったんだろう。私も云やしないし……。」
「何でも分るのよ。」
「え、なぜ。」
「なぜだか、何でも分るの。だからあたし、恐いわ。」
 光子は眼を据えて、縋りつくように彼の顔を見入ってきた。彼は唇をかみしめた。
「これから、何でも私が引受けてあげます、ね。みな打ち明けるんですよ。そして、お父さんに叱られるようなことがあったら、私のところへ逃げていらっしゃい。」
「そんなことをして……。」
「構やしません。あんなひどい……。」
 彼は変に不気味な気持と憤ろしい気持とを同時に感じた。
 それをじっと我慢して、いろいろ光子を慰めてやってから、階下に降りてゆくと、房子が茶の間で針仕事をしていた。その善良な鈍感な顔を見て、彼はいきなりきめつけてやった。
「光子さんはやはり、恐い夢をみて夜眠れないんです。それを今迄放っとくなんて、余りひどいじゃありませんか。」
「まあー、夢をみて眠れないのですって……。」
「そうです。それもあなた達が、差配をだますために、嘘を本当のように云わせようとしたからです。」
 房子は彼の激しい調子に、きょとんとした顔付で呟いた。
「わたしは止めたんですが、宅が強いて云うものですから……。」
「松木さんがどんなことを云われようと、あなたは母親じゃありませんか。あくまでも庇ってやるのが本当です。」
「ですけれど……。」
「一体あなたは、余り人が善すぎるからいけないんです。松木さんがどんな考え方をして、どんなことをされてるか、あなたは御存じないのですか。」
「あの通り、何にも聞かしてはくれませんので……。」
「聞こうともなさらないんでしょう。」
「聞いたところが、わたしには何にも分りませんし、男の仕事に女が口を出すものではないと云われますと……。」
「よくそれであなたは、不安じゃないんですね。」
「わたし、こんな性分なものですから……。」
「それでも、光子さんが可愛くはないんですか。」
「ええ、それはもう……。」
「じゃあ、せめて光子さんのことだけなりと、もっとしっかりなさらなくっちゃ……。」
「自分でもそう思いますけれど……。」
「現に光子さんがどんな気持でいるか、お分りですか。」
「だからあなたに……。」
「聞いて貰うと仰言るんですか、自分の娘のことを……。」
 そんな風に、彼は房子を云いこめてるうちに次第に気持が白けてしまって、口を噤んだ。馬鹿馬鹿しいのか腹が立つのか、自分でも分らなかった。そこへ暫くしてから、房子はふいに云った。
「わたしはもう、長年のことで、諦めておりますの。」
 溜息と共に彼女がふいに涙ぐんだので、彼は茫然としてしまった。

      七

 何という変な人達ばかりの集まりだろう、と彼は考えた。そしてその考えはいつも、松木に対する憤りに落ちていった。
 然し彼は、松木に対してだけは、面と向うと、少しも物が云えなかった。庭の穴を掘り返してみた時以来、彼は碌々松木と話をしたこともなかった。そして影でただじりじりするだけだった。
 松木は[#「 松木は」は底本では「松木は」]相変らず千三《せんみつ》の仕事に、一日中馳け廻ってるらしかった。夜帰ってくると、茶の間でいつまでも煙草を吹かしたり、奥の座敷で書類と睥めっこをしたりして、家族の者とも余り口を利かずに黙っていた。
 彼も時々それと対抗するような気で、蚊に刺されるのを我慢しいしい、階下の茶の間にじっと坐ってることがあった。
 意識の全部が松木の方へねじ向けられて、じりじり苛ら立っていった。
 二十万とか五十万とか、いつも十万のつく金額ばかりを口にしてる松木、困ってくると細君の着物まで質に持って行く松木、十二三歳の自分の娘に危い狂言をさしてまで、差配を瞞着してしまった松木、細君を頭から押し伏せて、馬鹿みたいになしてしまってる松木、娘をおどかしつけて、始終恐れおののかしてる松木、碌に誰とも口を利かないで、而も何でもよく分るという松木、その松木全体の存在が、彼には堪え難いもののように思えてきた。
 日に焼けた浅黒い、いつも陰欝な没表情な額、さほどの年令でもないのに、ぽつぽつ白いのの見える五分刈の荒い頭髪、時によって妙に濁ったり鋭く光ったりする眼、頑丈そうな歯並と固い唇、太い頸筋、長い胴体、短い足、どこと云って異常な点はないが、見れば見るほど憎々しいその身体全体が、彼には堪え難かった。
 それが、そこに、電燈の光の下に、蟇蛙《ひきがえる》のようにのっそりと構えこんでいた。存在することだけで既に罪悪のようだった。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、彼はやはりその方へばかり意識が向いていった。手を動かし足を動かし、一寸身動きをすることまで、一々相手に反射するような気持だった。じっと我慢をしていると、額から脂汗がにじみ出てきそうだった。
 何か機会があったら、一寸したきっかけがあったら、ぶつかっていってやろうと思う、その思いだけで、自分はどんなことを仕出来すか分らないという恐怖が湧いた。
 房子も光子も隅の方にすくんでいた。
 その房子を松木は※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]でさし招いて、昼間から井戸に冷しておいた西瓜を切らした。そしてそれを彼へも勧めた。
「一寸腹工合を悪くしてますから。」
 やっとのことで彼はそれだけ云って、黙って西瓜をかじってる松木の前から逃げるように、二階の室へ上ってしまった。そして初めて安らかに息がつけた。
 俺は一体何をしてるんだ、と自分で自分に云ってみても、松木の前に出ると、彼はどうにも出来なかった。
 松木が家にいると、なぜか光子までが、二階にやってくるのに足音を忍ばしていた。そして彼のところへ来て、ほっと息をつくらしかった。
「やっぱり夢をみるんですか。」
「ええ時々よ。」
「じゃあ、私がいいものを借してあげましょう。これを枕頭に置いて寝ると、悪い夢なんかちっとも見ないんです。いいですか、そう思いこんで、ぐっすり眠るんですよ。」
 今迄躊躇していたが、彼は思いきって、一尺足らずの小さな短刀を取出して渡した。
「あら、これ刀ね。」
「ええ。」
 気味悪そうに膝の前に置いて眺めてるのを、彼はしいて手に持たしてやった。
「枕頭に置いて寝ると、決して悪い夢なんかみないんですよ。」
「だって、見付るわ。」
「構やしません。私がむりに持たしたんだと、そう云ってごらんなさい。」
「叱られやしないかしら。」
「叱られたら、逃げていらっしゃい。私が云い訳をしてあげるから。」
「そう、屹度ね。」
「ええ。大丈夫。」
 どんなことになったって構うものか、彼は変にびくびくしてる自分の胸に、自分で云いきかしてやった。

      八

 光子は悪夢をみることがないようになった。俄に元気に活溌になっていった。
「もう夢をみないでしょう。」
「ええ。」
「よく眠れますか。」
「ええ。よく眠られるわ。」
 にこにこして彼の顔を見ていた。
「じゃ、もうあの刀はいいでしょう。」
 光子は頭を振った。
「え、どうして……。あんなものをいつまでも持ってるものじゃありません。」
「だって、また夢をみると困るから。」
「その時はまた借してあげます。」
「いやよ、あれ、あたしに頂戴ね。」
「あんなもの
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