に理解し摘要し批判する。」
 それ故、如何に精緻な観察と忠実な描写とを以てしても、万人が真実だと認むる現実相を伝えることは出来ない。如何なる作家も、完全に自我を脱してしまうことは出来ない。ただ、要は、「その自我を隠すのに役立つ種々の仮面の下に、読者からその自我を認められないようにすることである。」かくて自我を――自分の思想感情を、一切の主観を――没却することが自然主義客観描写の根本となる。そして自我を没却するこの態度を押し進めてゆく時、そこに芸術至上主義が生れる。フローベェルはいう――「凡てを芸術に捧ぐべきである。芸術家にとっては、生活は一の手段であって、それ以上の何物でもないと考えなければならない。」
 生活でさえも既に一の手段である。その他のことはいうまでもない。一切を挙げて現実の再現に奉仕するのである。そしてこの態度は、単に外界に対するばかりでなく、自分自身に対するものともなる。観察眼が自分自身にも向けられて、自分が如何に悲しみ喜び或は行動するかを、冷やかにじっと見守るようになる。田山花袋は、実際に行動する自我を小我と名づけ、それを見守る自我を大我と名づけて、小我を没して大我に就くべきを説いた。たとえ自分自身のことを書こうとも、一人称の小説を書こうとも、この大我についておれば、全主観を没した客観描写が出来るというのである。
[#ここから2字下げ]
 産気が次第についてきた。お銀は充血したような目に涙をためて、顔を顰めながら、笹村の仮した手に取着いていきんだ。その度に顔が真赤に充血して額から脂汁が入染み出た。いきみ罷むと、せいせい肩で息をして、術なげに手をもじもじさせていた。そして時々頭を抬げて、当がわれた金盥にねとねととしたものを吐出した。宵に食べたものなどもそのまま出た。
 …………
 産婆が赤い背の丸々しい産児を、両手で束ねるようにして、次の室の湯を張ってある盥の傍へ持って行ったのは、もう十時近くであった。産児は初めて風に触れた時、二声三声啼立てたが、その時はもうぐったりしたようになっていた。笹村は産室の隅の方からこわごわそれを眺めていたが、啼声を立てそうにすると体が縮むようであった。ここでは少し遠く聞える機械鍛冶の音が表にばかりで、四辺は静かであった。長いあいだの苦痛の脱けた産婦は、「こんな大きな男の子ですもの」という産婆の声が耳に入ると、漸と蘇ったような心持で、涙を一杯ためた目元ににっこりしていたが、直に眠に沈んでいった。汗や涙を拭取った顔からは血の気が一時に退いて、微弱な脈搏が辛うじて通っていた。
 産婆は慣れた手つきで、幼毛の軟い赤児の体を洗って了うと、続いて汚れものの始末をした。部屋にはそういうものから来る一種の匂が漂うて、涼しい風が疲れた産婦の顔に、心地よげに当った。笹村の胸にも差当り軽い歓喜の情が動いていた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](徳田秋声――黴)
 こういう描写を読むと、吾々は作者の冷徹な態度に心を打たれる。そこには何等主観の動きはなく、ただ対象をじっと眺めてる眼があるばかりである。そして分娩の光景がまざまざと現出されている。現実の厳粛さといったようなものがある。けれども、吾々はまた、たとえこの作が「黴」という題名の示す作意に成ったものであろうとも、一種不満な焦躁を感ずる。分娩ということ――一人の人間が生れるということ――のうちに、その事実のなかに、吾々は一種のいい知れぬものを感ずる。それが何であるかは分らないが、産婆の処置や医者の手当や赤児の泣声以外に、即ち外見的な事実以外に、或は以上に、何かを感ずる。そしてその「何か」をも、具体的な描写のうちに籠めてほしいと、芸術に向って要求したいのである。
 現実の有する内在的気魄ともいえるその「何か」が欠ける時、読者は常に不満な焦躁を感ずる。描かれた人物はなお更のことであろう。右の作中の笹村やお銀が、もし作中で呼吸をしているとするならば、定めし息苦しい思いをするに違いない。そして作者自身も、人間をそういう風に取扱うことについて、遂に或る落莫たる心境に陥らずに済むであろうか。
[#ここから2字下げ]
「起き上り、歩き、窓にもたれてみる。向うの人々は午飯を食べている。そっくり昨日の通りだ。明日も同様だろう。父と母と四人の子供達。三年前にはまだ祖母がいた。それはもういない。吾々が隣り同士になった時から父親はひどく変った。が彼自身はそれに気付いていない。満足そうにしている。幸福そうにしている。ばかな奴だ。――彼等は結婚のことを話し、次には死者のこと、次にはやさしい子供のこと、次には不正直な女中のことなどを話している。役にも立たない下らない無数の事柄に気を揉んでいる。ばかな奴等だ。――十年も前から彼等が住んでる部屋を見ると、私は胸糞がわるくなり
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