腹が立つ。然しそれが人生だ。四方の壁、二つの扉、一つの窓、一つの寝台、数脚の椅子、一つの卓子、それだけだ。牢獄。人が長く住んでいる住居は、みな牢獄となってしまう。もう逃げることだ。遠くへ出かけることだ。ありふれた場所から、人間から、時を定めた同じ様な動作から、そして殊にいつも同じ様な考えから、逃げていってしまうことだ。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](モーパッサン)
 探りあてた人は、結局そんなものだったのか。然しそれはむしろ探りあてたものではなく、つき当ったものではなかったか。つき当ってそして、何処へ逃げようとするのか。狂気の世界か死の世界かより外に、逃げ場所はあるまい。
 なぜならば、人生から眼をそむけて、自分一人のうちに閉じ籠ることももう出来ないのである。自分の喜びや悲しみや、楽しみも凡て観察の対象となって、実際に喜び悲しみ苦しみ楽しむことが出来ないのである。彼は「二つの魂」を持ってるかのようである。一つは万人に共通な自然の魂であって、も一つは、その自然の魂の各情緒を記述し、説明し注釈する魂である。そして彼は如何なる場合にも常に自分自身の反映となりまた他人の反映となって生きるの外はない。感じ行い、愛し考え苦しむところの自分自身を眺むるばかりで、凡ての世間の人のように、それぞれの喜びや悲しみの後に自分自身を解剖しないで、素直に単純に苦しみ考え愛し感ずることは、決してないのである。
 いわゆる「小我」を去ったそういう「大我」は、一体何物ぞ。それは神の境地であろうか。否。神には自己の分裂はない。神は小我の荷物を持っていない。そして人間にあっては畢竟、「小我」こそ自己であって、「大我」はその「小我」が転身したものではなく、現実に対する態度からいつしか習得された頭脳の一の働きに過ぎないのである。
 かくて、「自然の魂」を取り失い、「人生の壁」につき当る時、その作家の筆端から生れるものは枯渇した記述に過ぎなくなる。現実の豊満さを具えていたものが、やがて養液を失って干乾びた死屍に過ぎなくなる。作家自身、心意の熱を失ってくるからだ。
 あらゆる生物の生理に熱量が主要な問題となる如く、文芸作品の生理にも熱量が主要な問題となる。熱を失って冷えきる時には、作品も死んでゆく。
 この作品の熱は、作者の心意の熱が移植されたものに外ならない。作者の思想的欲求、感情的欲望、生活的意欲など、一言にしていえばその心意の燃焼から起る熱はおのずから作品の中に伝わって、作品を生活させる熱となる。作者がその心意の熱を失って、ただ書かんがために書く時、即ち表現の熱意だけで筆を執る時、作品は冷えきって、冷灰枯木に等しくなる。本当に書きたくて書くということは、表現の熱によるのではなくて、心意の熱のはけ口を求めることである。
 自然主義が、一方では作者自身の心意の熱を枯渇させ、他方では現実の外壁につき当って行き詰った時、そこに当然新たな途が要求される。新たに現実を見直し、新たに現実の奥に探り入ろうとする努力が、即ち現実に対する新らしい態度が、要求される。
 最も自然主義に近い表現法に依ってる作家でも、現代ではよほど自然主義とは離れたところを歩いている。
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「私は軽く頷いたが、途端、今までの喜び全部が、暗い淵の底に石でも抛ったようにドブンと音を立てて沈んでいった心地がした。S氏が世田ヶ谷のごみごみした露地内の、狭苦しい、蒸し暑い家で、口をパクパク二つ三つ喘がせて息を引き取った時、隣家の垣根を飛び越えてきた大きな虎猫がミャンミャンとドラ声で鳴いて近寄ると、未亡人が「それ猫が来た!」と縁側に出て手を上げて追っ払い、室に駆け戻ると、生前S氏が使っていた仕事机から、錆びた安っぽいナイフを出して、死人の枕もとに置いたことが、ふーッと頭に泛き出したのだ。――実のところ、私もそんなに長く生き永らえる自信は持ち合わせてないのであった。時とすると死が足音をひそませて忍びよるように思えることが度々である。定めしユキ一人に看護られ、何処かの佗び住いで寂しく閉眼するだろうが、生臭いにおいを嗅ぎ知った黒い野良猫が黄金色の目玉を光らせて死体を喰いに来た場合、剃刀は平日から持っていないので、泣き沈んだユキが、「しッ!」と猫を叱りながら周章ててこのナイフを取り出して枕辺に置く――続いてそうした光景が眼に見えて描かれてくると、そんなこととは知らずに一生懸命に針を動かしているユキの顔が、もう正視出来なかった。」
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[#地から2字上げ](嘉村磯多――七月二十二日の夜)
 じみな描写や、対象をじっと見つめて、自分自身をもつき離して眺めてる態度などは、自然主義に似寄っているが、然しここでは、作者の心情の動きに対する拘束は殆んど引除かれている。

  
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