現代小説展望
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)反響《こだま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)直接に[#「直接に」に傍点]
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小説の本質
ある科学者がこういうことをいった――「科学に没頭していると人生の煩わしさを……人生そのものをも……忘れてしまう。科学は人生なしに成立する。それが、初めは淋しい気もしたが、この頃では却って嬉しい。」
淋しいか嬉しいか、それは別問題として、実際、科学は人生なしに成立する。人生がなくても……人間がいなくても……二つの点を結びつける線のうちでは直線が一番短いだろうし、空気は酸素や窒素やその他のものから出来てるだろうし、光は一秒間に約三十万キロ走るだろう。そういう事実を見出したのは人間であるが、事実そのものは人間の存在とは何の関係もない。
右のことは、数学や自然科学ばかりでなく、他の学問についてもいえる。肉体の細胞が如何にして癌に変化するかを、医学は説明する。夢の中で頭脳が如何に敏速な活動をなすかを、心理学は証明する。資本主義が如何なる機構の上に立つかを、経済学は解剖する。その他種々。然しながら、人間の肉体的現象が、或は精神的現象が、或は社会的現象が、如何に闡明されようとも、人間の「生きてるという感じ」は――生活感は――なおいえば、生活そのものは――視野の外に残されている。だから少々詭弁めいたいい方をすれば、人間生活がなくてもそれらの学問は成立する。恰度、芸術がなくても美学が成立するように。
こういう分りきったことをいう所以は、芸術は直接に[#「直接に」に傍点]人間生活を内包するということを、ここに断っておきたいからである。直接に生活を内包するというのは、見方を変えれば、生活の直接の[#「直接の」に傍点]現われだといってもよい。
人間生活なしには芸術は成立しない。人間生活のない音楽は単なる音響であり、人間生活のない絵画は単なる色彩である。
[#ここから2字下げ]
「自然」は神の宮にして、生ある柱
時おりに捉えがたなき言葉を漏らす。
人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き
森、なつかしき眼差に 人を眺む。
長き反響《こだま》の、遙なる遠《おち》、奥深き暗き統一《ひとつ》の夜のごと光明のごと
広大の無辺の中に、混らうに似て、
聲と 色と 物の音《ね》と かたみに答う。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](ボードレール、鈴木信太郎訳)
これは象徴派詩人の自然観であるが、それは自然に対する単なる視察ではなく、自然に対する生活的味到である。そういうところから芸術が生れる。
然しこれは詩であって小説[#「小説」に傍点]ではない。
トルストイに「三つの死」という短篇小説がある。その終りの方に、一本の木が切り倒されることが描いてある。朝早く、東がやっと白みかけたころ、森の中で、一本の木が斧で切られている。その斧の不思議な音が、森の中で繰返される。鶺鴒が別な木の枝に逃げる。
[#ここから2字下げ]
下では斧がますますこもった音をひびかせ、みずみずした真白な木屑が露を帯びた草の上へ飛んで、一撃ごとに軽い裂けるような音が聞えた。木は身体全体をびりびりふるわせて、その根の上で喫驚したように揺れながら、曲っては素早くもとへ返った。一瞬間すべてはひっそりと静まり返った。が、また木はぐっと曲って、その幹の中でめきめきと裂ける音が聞え、そして小枝を折ったり、大枝をへしまげたりしながら、しめった土の上へ横ざまにどっと倒れた。斧の音と人の足音とは静になった。鶺鴒は一声鳴いて高く舞い上った。彼がその翼でひっかけた枝は、暫く揺れていてから、他の枝と同じように、葉もろともに静まった。木々は新たに出来た空間に、一層歓ばしげにその動かない枝を張った。
太陽の第一線が、透明な雲を貫いて空にその光を投げ、やがて大地と天空とを一さんに駆けぬけた。霧は浪をなして谷間に溢れ、露はきらきら光りながら緑葉の上で戯れ、透明な白い雲は大急ぎで蒼穹の面を散っていった。小鳥どもは茂みのなかを飛び廻って、我を忘れたもののように、何やら幸福そうに啼き交わした。みずみずした葉は歓ばしげに、静かに梢の上で囁きかわし、生きた木々の枝々は、死んで倒れている木の上で、静かに荘厳に動き始めた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](中村白葉訳)
精彩な新鮮な描写である。ところが、この木の死だけでは、小説にはならない。この一篇が小説になってるゆえんは、貧しい男の死と富裕な女の死とが、木の死と対照的に描かれてるからである。
右に引用した部分だけでも、立派な芸術的描写ではある。それには人間生活が裏づけられている。もし人間生活が――人生が――なかったならば、森
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