の中の一本の木が切り倒されることを、こういう風に書けるものではない。然しここに裏づけられてるのは、単に生活的情感だけである。それが、他の二人の人間の死とつみ重ねられて、生活的現実性にまで濃度をまして、はじめて小説となっている。もし木の死だけで一篇の小説を成そうとするならば、おのずから異なった手法が必要であろう。
 勿論小説には一定の形式というものはない。如何なる形式の小説を書こうと、それは作者の自由である。然しそれには必ず生活的現実性の裏づけが必要である。
 生活的現実性という言葉は、私が仮りに使ったもので、一言説明しておく。
 人間の生活は――なおいえば、人生は――種々の相貌を具え、種々の色合を呈し、種々の叫びを発する。その、叫びや色合ばかりでなく、相貌までを含めたものを、生活的現実性のあるものと私はいう。そして小説は、特殊のものを除いて本来、この生活的現実性を持っていなければならない。ごく客観的に人間生活を描いてあるような外見の小説で、実は案外、その叫びや色合きり描かれていないものがある。またその逆なものもある。要は、作者の眼の据え所と心構えの如何とによる。
 ザイツェフの短い小説だが、「狼」というのがある。――狼の群が一週間も続いて猟師たちから狩立てられる。彼等は傷つき且つ餓えながら、雪の積った曠野の中を彷徨する。時々立止っては一かたまりになって吠え立てる。そしてはまた歩きだす。夜になってもさまよい続ける。
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 狼共は徐に歩いた。死んだような雪は蒼白い眼で彼等を眺めた。上からは何物かどんよりと光って、下では細かい薄い氷が……いやな音を発した……。
 狼共は考えた。やはり後に残った友達の方が正当だった。白い曠野は実際彼等を憎んでいる。彼等が生きていて駆廻ったり蹂躙ったり、安眠を妨げたりするのを憎んでいる――とそんな風に考えた。この果知れぬ曠野が今にもまっ二つに裂けて、すっぽりと彼等を挟みこんで、そのまま葬ってしまうだろうと感じた。そして彼等は絶望した。
「手前、俺等を何所へ連れて行くんでえ?」と彼等は年取った狼を詰問した。「手前途を知ってるかい、何所へ出るんでえ?」年取った狼は黙っている。
 が、一番若い馬鹿な狼が殊更しつこく、こういってつめかけてきた時、年取った狼は振返ってぼんやり彼をながめたが、急に殺気を帯びてきて、返答する代りにざくりと彼の頸項に咬みついた。
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[#地から2字上げ](昇曙夢訳)
 こういう章を読んでゆくと、雪の曠野を彷徨してる飢えた狼だけでなく、その中に直接現われてる一種の人間生活の相貌を、吾々は感ずる。しかもこの一篇の中には人間は殆ど立現われてこないのである。
 作品において、素材は何でも構わない。作者が何を見、何を感じ、何を描いているか、そしてそれが作品のなかにどういう風に現われているか、それが肝要な問題である。
 或る素材について、作者が何を見、何を感じ、何を描いているかということは、結局その素材に対して作者がどういう態度をとっているか、ということに帰着する。そしてこの素材というのは、小説の材料として取上げられた人生の種々の事実――人物や事件や風習や思想――に外ならないからして、これを一言に、人生の現実といっても差支えない。そこで、人生の現実に対して作者がどういう態度をとっているかが、最も肝要な問題となる。
 現実に対する作者の態度の如何によって、種々の作品が生れる。或る時代には、現実に対する多くの作者の態度がほぼ一定していて、同じ種類の作品が多く現われる。何某主義時代という文学上の時代は、そういう時期である。また或る時期には、現実に対する作者の態度が四分五裂して、各人各様の態度をとり、随って作品の種類も雑多になる。謂わば無秩序無統制の時期であって、各種の主義主張が乱立する。現代はその最もよい例である。殊に、現実に対する関心が新らしく、現実探究の各種の途がまだ十分窮めつくされていず、しかも次々に新らしい見解が輸入されている吾国の現代は、その最もよい例である。
 試みに吾国現代の文芸界を見渡して、視野を小説の範囲に限っても、雑多な主義主張が交錯して、渾沌たる状態を呈している。その主義主張のうちには、日々に更改されるものもあり、僅かに余命を保ってるものもあり、忽ちにして死滅するものもあり、僅かに芽を出したに過ぎないものもある。しかもまだこれから、種々のものが現われ出そうな気配である。個々の作家について見ても、鮮明な旗幟をかかげている者もあり、思念の赴くままに自由な態度をとってる者もあり、次第に態度を転向している者もある。文壇というものが解体されたという語は、こういう渾沌状態を巧にいい現わしている。文壇が解体されて、新らしい息吹で各種の部分が別々に生存して
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