それとも……。
 二三時間前のことが、眼にはっきり見えて来た。それを無理に彼は突きぬけようとした。つかつかとはいって行って、順一の横に坐った。手を伸して額に触ってみたが、生温《なまあったか》いだけで、熱はなさそうだった。
「様子が悪そうなのかい。」
「いいえ。」と竜子は顔を伏せたまま答えた。
「どうしたんだい。」
 返辞がなかった。彼は暫く待ってから、火鉢の方へいざり寄って煙草を吸った。
「旦那様は、」と竜子は云った。「お坊ちゃまが可愛くないのでございましょうか。」
 何のことだかよく分らないので、その方を見返すと、竜子の真剣な眼付に打たれた。彼はぎくりとした。
「私奥様から、坊やのことを頼むとくれぐれも云われておりますし、それに、自分の児は他人《ひと》にやってしまって、お坊ちゃまが何だか自分の児のような気がして、可愛ゆくてお可哀そうで、離れられませんけれど、いろいろ考えますと、やはりお暇を頂いた方が宜しいようでございますから……。」
 ゆっくりした言葉であったが、その調子が上ずっていて、いつもの彼女ではなかった。彼はじっとその顔を見つめてやった。彼女は口を噤んだ。
「嘘だ。」と彼は叫
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