が石のようになって、こちらを見つめていた。
「乳母《ばあ》や!」
喫驚するほどの大きな声が出た。
「何をしていたんだ!」
彼は飛びかかって、無我夢中で殴りつけた。彼女の身体がへなへなになって倒れたのを感じた。女中が駆けつけて来た。彼は腕を組んでぼんやりあたりを見廻した。横坐りに片手で身を支えながら震えてる竜子と、呆気に取られてつっ立ってる女中と、……廊下の隅が薄暗かった。
「散歩に行ってくる。」
云い捨てて置いて、袖からつき込んだ左手でぐっと腹を押えながら、わざとゆっくり構え込んだ。金入を懐にし、煙草を袂に入れ、外套を着込み、帽子を被って、外に出た。
寒い夜だった。西の空に傾いてる月の面を掠めて、白い雲が空低くちぎれ飛んでいた。
彼は明るい大通の方へ歩いていった。風を捲き起して轟然と走り過ぎる電車の響と、何処までも続いてるレールの蒼白い輝きとが、夜更けの寒い街路に快かった。彼は真直ぐにそのレールに沿って歩み続けた。何もかも打忘れて大地の上に一人つっ立ってる気持だった。提灯をつけ大きな荷物を積んで通り過ぎた怪しい荷車が、その気持にぽつりと黒い影を落していった。
下らないことに
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