いた世界のことを思うと、眼の前が真暗なものに閉された。
秋子が生きていてさえくれたら!
同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷《そこびえ》が感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。
竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。
「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣《えな》に引かされてでしょうかしら。」
順造はふいと立ち上った。
夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。
彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことり[#「ことり」に傍点]との物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分って
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