「もう夜明けに近いかも知れない。」
 そう云い捨てて彼は、秋子の視線から眼を避けながら、室の片隅に敷いてある布団へ、着物のままもぐり込んだ。
 眼をつぶると、暗い所へ引入れられるような心地がした。眼を開くと、先刻まではそうも感じなかったが、赤ん坊のため二重に覆いをした電燈が変に薄暗かった。……幾度も眼を開いたり閉じたりしてるうちに、いつのまにか眠った。
 然しよく眠れなかった。表を通る牛乳車の音に眼を覚した。次に眼を覚した時は、遠くに汽笛の音や汽車の響がしていた。それからもう眠れなくなった。そっと起き上った。顧みると、秋子も赤ん坊もぐっすり寝込んでるらしかった。
 彼は一寸躊躇したが、やがて忍び足で縁側に出て、雨戸を静かに開いた。冷かな空気が薄すらと霧を湛えて、夜が白く明けていた。彼は大きく呼吸をした。それから煙草を吸った。庭の隅の茂みの中に、何やら淡い色があった。よく見ると、大きな枸杞《くこ》の下垂《しだ》れ枝が、薄紫の小さな花を一杯つけてるのだった。
 彼はその花に暫く見惚れていた。心の奥から、第一の夜明だ! という声が湧き上ってきた。

     三

 粘りっ気の多い緊りの少
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