いんですか、と彼女はよく云ったけれど、上っ調子のその言葉は、攻撃的なだけで根深くはなかった。それが今は、腹の底から彼に対抗しようとしていた。
「お前こそ僕が邪魔なんだろう。」と心にもない言葉が彼の口から出た。
 その後では、何も云うことがなくなって黙り込んだ。
 姙娠した女を相手に喧嘩するものじゃない!
 苦々しかった。二人きりの時は、どんなに激しくいきり立っても、底をわってみれば夫婦間の冗談にすぎなかった。所がそれに胎児という変なものが加わると、二人の心は笑うにしても怒るにしても、同じ一つの火に燃えなくなった。彼女はもはや彼を対手にしてはいなかった。
 七ヶ月、八ヶ月……となると、腹が目立って大きくなった。彼女は前年の新婚当時のように、暑い盛りを海岸へ行こうとも云わないで、額には汗をにじませながら、両袖で腹部を蔽って、室の真中に泰然と坐っていた。ただ一つの要求は女中を傭うことだった。その女中が漸く一人見付かると、家の中の用を殆んど凡て任せっきりにして、自分は赤ん坊の着物などを、ぽつりぽつりと縫い初めた。針を手にしたまま、何かをぼんやり思い耽ってることが多かった。
 順造はその後ろへ忍
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