に取られると小さな羽をばたばたやった。
「可哀そうですわ。助けておやりなさいな。」
「ええ。」
 と答えて行こうとすると、後ろから、彼の方へ呼びかけるのでもなくまた独語でもなく、何気ない調子で、
「もう今日きりね。晩にまた海へ出てみましょうか、屹度月が綺麗ですわ。」
 振り向いてみると、彼女は顔の下半分で微笑んでいた。が、じっとこちらを見てる黒目がちの眼が、変に熱く鋭く感ぜられた。
 彼はやはり場を失った眼を俄に伏せて、松林の方へ馳けていった。
 その日見た――初めてのようにしみじみと而もひそかに見て取った彼女の姿が、頭の奥にこびりついていた。――地引網が上ってくるのを、まじろぎもしないで見つめてる立ち姿が、肩がしなやかにこけて、臀から股のあたりにむっちりとみがはいっていた。――水から出て海岸の砂に寝そべりながら、赤く日に焼けた上膊から剥がれる薄い皮を、しなやかな指先でそっとつまんで引張りながら、
「こんなに皮がむけてきたわ、もう一人前ね。」……だが、濡れた海水着がぴったりとくっついてる痩せた胸には、姉のに比べると余りに小さな、ぽっつりとした乳房が淋しかった。――湯から出てお化粧をしてる所を覗くと、「見ちゃいやよ。」と云いながら、なお平気で彼の眼の前に曝してる半裸体の、他が日に焼けてるせいか、海水着のあとが殊にくっきりと白くてこまやかだった。――縁側からぶら下げてる足指の子供々々した爪の恰好に、梨をかじりながら見とれていると、その足がぬっと前へ出たので喫驚した……が、瞬間に立ち上った彼女は、ぼんやり見上げた彼の眼へちらと微笑みかけた。その顔が、眼ばかり大きくて真白だった。
 強く握りしめていた掌の小鳥に彼はふと気がついて、それを低い松の小枝に放してやった。ばたばたと羽ばたきをして小刻みにちょっとあたりを見廻して、それから一枝ずつ、高い梢の方へ飛び上っていった。ごーっと鳴る松風の音がその後を蔽いかくした。
 頼りない淋しい夕方だった。
「なぜかは知らねど心迷い、むかしの伝説《つたえ》のいとど身にしむ……。」
 いつのまにか聞き覚えた歌の節が、一人でに口から出ようとするのを、彼はじっと抑えつけた。彼女の歌を歌うのが、心のうちに憚られるような気持ちだった。
 見えないほどの空高くに、松の梢越しのまだ夕明りの空に、星が一つきらめいてるらしかった。「恋せよ、恋せよ!」と何かが囁く。「恋すな、恋すな!」とまた囁く。
 それに耳を澄すと、「凡て空なり!」初秋の風の音がごーっと鳴っていた。

     八

「今じきにいくから、遠くへ行かないで待ってて頂戴。」
 こまこました道具を明日の出発のために片附けていた姉は、そう云いながらもやはりゆっくり構え込んでいた。はいりきれないほどの品物をどうにかつめ込もうと、バスケットの側にいつまでもくっついてる伯母の方は、姉よりも更に気長だった。
「ほんとにいい月よ。」
 俊子の言葉をきっかけに、彼もぷいと外に飛び出した。
 東の空に出たばかりの月は、松林に距てられて見えなかったけれど、ランプの光りの薄暗い家の中よりは、もっと明るいぱっとした夜だった。物の影が長く地を匐ってる上を、二人は黙って海の方へ歩いていった。
 踏み込むと冷りとする叢の中で、虫がしきりに鳴いていた。それへ月の光りがくっきりと落ちている処で、二人はふと足を止めて、姉が来るのを待った。
「私何だか明日帰るのだという気はしませんわ。静夫さんは?」
 明日帰ることばかりではなかった。此処に来たことが、今こうしていることまで凡てが、夢のように思われた。黙ってると、波の音が遠くに聞えだしてきた。
「海は実際いいですね。」
「ええ、ほんとに!」
 と俊子がすぐに応じてくれたけれど、変に気まずく思われた自分の言葉の調子が、まだ彼の頭から去らなかった。つと横を向いて、大事に持ってきたABCに火をつけた。
「いい匂いの煙草ですわね。私も吸ってみようかしら。」
 彼が黙って差出したのを、彼女は笑いながら一本取ったが、
「ああ、これは駄目。吸口がないから。」
 戻されるのを受取る拍子に、息がつまるような甘っぽい化粧の香りが、ぷんと彼の鼻にきた。
 姉はいつまでも来なかった。
「海まで行ってみましょうか。」
 その顔を何気なく見上げると、白々と月の光りに輝らされた中に、底光る黒目と赤い唇とが、まざまざと浮出して見えた。
 彼は身体が堅くなるのを覚えた。静かな夜、月の光りの中に、彼女と二人で立ってることが、息苦しくて不安だった。余りに目近く彼女の側に居ることが、しみじみと胸にこたえて、身の動きが取れなかった。それを、黙ったまま歌も歌わないで、彼から追っつかれるのを待つかのように、ゆっくりと足を運んでる彼女の後ろ姿が、ぐいぐい引きつけていった。黒い髪のはじから覗いてる耳朶の下に、四五筋のほつれ毛がそよいでいた。
 松林の影にはいった時、波音が俄に高く聞えてきた。足下の草は露に濡れていたが、松の梢はかさかさ乾いていそうな夜だった。
 暫く行くと、その向うの左手に、四五本の雑木が、こんもり蹲っていた。彼ははっとしたが、足を止めるまもなく、先日の提灯はもう無くなってることを知って安堵した。
 と同時に、ぱっと明るくなった。薄暗い海を背景にして、なだらかな砂浜が浮き上っていた。見渡す限り広々として何もない、冴え返った月の光りが、降り濺ぐように一面に落ちている。波の音が消えて、しいんとした蒼白い明るさだった。透明な深い水底ででもあるかのよう……円い月がぎらぎら輝いて見えた。
 彼は足を早めて俊子に追い縋ろうとした。途端に、鉛色の月の光りが彼女の髪をすっと滑り落ちて、振り向いたその顔が、真白な歯並と真黒な瞳とを投げ出して、にっこと微笑んだ。瞬くまも許さない咄嗟だった。
 ぞっとした。ぶるぶると身体が震えた……とまでは覚えていたが、あとはただしいんとなった。
「静夫さん!」
 胸にしみ通るような細い声が聞えたので、彼はふと眼を見開いた。嵩高な女神の端正さを持った俊子の上半身が、降り濺ぐ月の光りの中に浮んでいた。……と思うと、心持ち左に傾いたその顔が、ぼやぼやとくずれた。
 彼女の腕の中に在る自分自身を、彼は全身で感じた。細かな震えが背筋を流れて、歔欷と涙とがこみ上げてきた。……が、
「どうしたの。」
 彼女の声は澄みきって響いた。
 それでまたぞっとした。いきなりその腕を払いのけて、砂浜の上を駆け出した。後から彼女が追っかけてきた。息がつけなかった。砂の上にどっかと坐って、眼をつぶった。
「静夫さん!」
 柔かな手を肩に感じた時、彼は初めて我に返った心地がした。眼を開いてみると、それはいつもの俊子だった。
 見開いた眼が濡んでるようだった。高い鼻のために淋しく見える頬が、血の気を失って、真蒼だった。きっと結んでる口が少し開いて、やさしい含み声で、
「何に慴えたの!」
 云ってしまって彼女はほっと息をした。
 彼はぼんやり立ち上った。
「恐いことを思い出して……。」
 とでたらめに云い出したのを、彼女からじっと覗き込まれて、先が云えなくなった。頭の奥がしいんとして、胸が高く動悸していた。二人共黙り込んで、沖を眺めやった。時の歩みが止ったような時間だった。
 そこへ、姉がこちらを何やら呼びかけながら、向うの松影から駆けてきた。
 彼は初めて、俊子の眼をじっと見入った。それに応えて彼女の眼付が首肯《うなず》いた。瞬間に彼女はくるりと向き直って姉を迎えた。
 岸に近い波音を、月の光りが上から押っ被せていた。が、海は沖の方でも鳴っていた。

     九

 東京に帰ると、海岸よりむし暑くはあったが、それでも秋がしみじみと感ぜられた。避暑地気分がなくなったせいばかりではなく、朝は冷かな霧が罩め、晩には凡てのものがしんと冴えていた。姉弟と女中と三人住みの小さな家にはわりに広すぎる庭に、しきりに鳴いている虫の声が、金属性の震えを帯びていた。
 それが彼には妙に淋しかった。
 が、そればかりではなく、実際不思議な淋しさだった。
 帰京の日は、旅の慌しさに何にも感じなかったけれど、翌日から、海鳴の音が時折耳にはっきり蘇ってきた。おかしいなと思うと、冴え返った月が見えてきた。月ならば東京にも輝ってると思い返したが、それがまた変にぎらぎらと生々しい月で、その下に広い砂浜がうち開けて、誰かが向うを向いてじっと佇んでいる。俊子だ……と気がつくと、頭がぼーとした。胸が切なかった。やけに身体を揺ってみた。
「静ちゃん、何してるの、震えるような恰好をして。」
 姉がこちらを見ていた。
「頭が妙に重苦しいから。」
 それで身体を揺るって奴もないものだけれど、姉は追求して来なかった。それをいいことにして彼は毎日、頭が重苦しいと云っては家に引籠っていた。
 月の光りを浴びて砂浜に佇んでる姿は、夜になると殊にはっきりしてきた。海水着一枚の半裸体で――月夜にしては変だけれどそれがしっくり調和していた――いつまでもじいっと、向うを向いたまま立っていた。……それを、力一杯に而もそーっとこちらへねじ向けてやると、真白な顔が、滝のような月の光りを浴びて、その底からにっこり微笑んだ。
 彼はぞっとした。……が、危く喉から出かかってる声を抑えるまがあった。電燈の光りが静まり返っていた。雨のように繁く虫の声が聞えてきた。外には月が冴えてるに違いなかった。
「いやな人!……何でそんなに私の方をじっと見つめてるの。」
 雑誌をぱたりと畳に伏せて、姉は身を起しながら向き直った。
「何でもありません。」
 とまではよかったが……。
 夜遅く、彼はふと眼を覚した。蚊帳の上の天井の所に、ぼんやりした円い明るみがあった。それが白張の提灯で、室の中がぼーっとしている。いやにひっそりしてるな、と感じた瞬間に、月の光りと変って、磁石のような執拗さで、円いのへ引きつけられてしまった。身動きが出来なくて眼を据えると、それが俊子の顔だった。真黒な瞳と真白な歯とでにっと笑った。かと思うまに、細そりした指先がその上を掠めて、円いのがゆらゆらと揺いで、ふっと消えた。しいんとなった。
 一寸間があった……のは、夢とも現ともつかなかったからで、本当に眼覚めると、ぞっと総毛立って、手足の先まで冷りとした。
 そのまま暫くじっとしていたが、それが、俄に恐ろしくなって、いきなり飛び起きた。咄嗟に隣りの室へ飛び込んだ。
「姉さん、姉さん!」
 釣手を引き切られて落ちてきた蚊帳の下から、漸く匐い出して来た姉は、彼の様子を見てはっと身を退いた。それを構わず、彼は腕に縋りついていった。
「姉さん!」
 息がつけないのを、むりに云い進んだ。
「恐いから、こつちへ寝かして下さい。」
 姉も慴えていた。何とも云わないで、隣の室から彼の布団をずるずる引張ってきた。耳を澄しながら、間の襖をそっと閉めた。
「蚊帳をつっちゃいけません。」
 云い捨てて彼は布団を頭から被った。
 蚊帳を片付けていた姉は、俄にそれを向うへ投り出して、布団の中にもぐり込んだ。夜着の下から、震える手先を伸して彼の方へ縋りついてきた。

     十

 彼はどうしてもその理由を云わなかった、云えなかった。
 毎晩、姉と同じ室に床を並べて、蚊やり線香をたいて寝た。けれども、夜中に時々|魘《うな》された。昼間も遠くに幻が浮んでくることがあった。
「自分でも分らないのなら、せめてお医者に診《み》て貰ったらどう? ね、そうなさいよ。」
 不気味な不安さを覚え出してる姉の手前、それをも拒むわけにはゆかなかった。無駄だと知りつつ医者を迎えた。行きたくなかったので来て貰った。何を問われても、変な夢をみるというきり黙っていた。強度の神経衰弱という名目の下に、何だか甘っぽい水薬が与えられた。
「ふん。」
 鼻の先で嘲って、室の中をぐるぐる歩き廻った。それが自分でもおかしくなって、くすりと忍笑いをしていると、姉が向うの室からじっと様子を窺っていた。
「ばアー。」と冗談におどかしてやろうとしたが、それが何だか真剣になりそう
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