月明
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)褌《ふんどし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|者《もん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21]
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     一

 褌《ふんどし》一つきりの裸体の漁夫が、井端で、大漁の鯵《あじ》を干物に割いていた。
 海水帽の広い縁で、馬車馬の目隠しのように雨の頬を包んで、先に立ってすたすた歩いていた姉が、真直を向いたまま晴れやかな声で、
「今日は。」
 と声をかけると、漁夫も仕事の手元から眼を離さずに、尻上りの調子で、
「今日は。」
 姉の後に続いていた俊子が、これも海水帽の縁の中で、くすりと笑った。その拍子に、海水着一枚の背中の肉が擽ったいような震えをしたのを、彼は後ろからちらりと見た。
 姉ははふいに振り返った。
「何を笑ってるの。」
「だって、あんまり挨拶がお上手だから。」
「そう。」
 遠いような近いような海の音があたりを包んで、晩夏の日がじりじり照りつけていた。
「この辺はそれは質朴だから、」とややあって姉は思い出したように、「誰に逢っても今日はと挨拶をするのよ」
「ほんとにいい処ね。私すっかり身体もよくなったような気がするわ。」
 姉は勝ちほこったように、も一度後ろを振り向いて俊子の顔を見た。俊子が軽く肺炎を病んで、適当な避暑地を物色していたので、彼等姉弟と伯母――と云ってももう五十の上を越した――と三人で避暑することになっていた、この上総の海岸へと姉が誘った時、停車場から一里半もある辺鄙な土地ではあるけれどと云われて、俊子は一寸躊躇したのではあったが……来てみると、辺鄙なのが却ってよかったのだ。東京から入り込んだ客は、彼等を除いて、その部落に六七人とは数えられなかった。
「気兼ねする大勢の避暑客がないのが、一番いいわね。」
「その代り、静夫みたいな悪戯者《いたずらもの》が居るから、気をおつけなさい。」
「あいた!」
 四五歩後れてぼんやりしてる所へ、自分の名前がふと耳についたので、何を云ってるのかと思って足を早めたはずみに、叢に踏み込んだ蹠を何かでちくりと刺された。彼は飛び上って足を抱えた。
「どうしたの、頓狂な声を出して。」
 掌で砂を払い落して蹠をしらべたが、もう何処が痛いのか分らないくらいに、何の傷跡も残ってはいなかった。
「蟹でも踏みつけたのかと思ったが、何でもなかった。」
 それでも、俊子が気懸りそうな眼付でじっと見てくれたのが、彼には嬉しかった。その嬉しさを、他人にも自分にも押し隠すようにして、馳け出してやった。

     二

 川の干潟や陸には、甲羅の赤い小蟹が沢山居た。その蟹が殆んど居なくなった川口で、水にはいるのであった。広漠たる太洋に面した浜では、荒波が危険で泳げなかった。
「も少しこちらへいらっしゃいよ、泳ぎを教えてあげるから。」
 膝までしかない所に坐って、手先でじゃぶじゃぶやってる俊子へ、姉は川の真中から呼びかけた。満潮にさえならなければ、何処でも背のたつ浅い川だったけれど、俊子は決して中程まではやって来なかった。
「教えてあげるは大きいや、」と彼は引取って云った、「自分でよく泳げもしないくせに。」
「何を云ってるの。じゃあ泳ぎっくらをしましょうか。」
「しよう。」
 せいぜい二十間ぐらいしか泳げない姉だったが、いつまでも後からのこのこついて来た。よく見ると泳ぐふりをして歩いてるのであった。彼は少し速力をゆるめて、姉が近づいた頃合を見計って、いきなり水にもぐった。足を捉えて引きずり込んでやるつもりだった。が……その足が見当らなかった。暫くしてひょいと水から首を出してみた。姉は早くもそれと察して、俊子の方へ逃げ出していた。彼は追っかけていった。姉は漸く俊子の側まで逃げのびると、俊子の腕につかまって、息を切らしながらも笑っていた。
 俊子と一緒では仕方がなかった。それでも癪だったので、水をぶっかけてやった。
 日の光りの中にぱっと水抹《しぶき》が立って、その下から、
「お止しなさいよ……そんなこと……卑怯よ。」
 それが、姉の声だか俊子の声だか分らなかった。また水をぶっかけようとすると、二人は岸の方へ逃げていった。
「もうあなたと一緒には水にはいらない。」
 顔に浴びせられた水を掌で拭きながら、姉は怒った風をした。
「だってあなたの方が悪いわよ。」
 と俊子は云って、まだ笑ってる眼付で彼の方をちらと見た。
 彼は大きな赤貝の殼を拾って、川の方へ力一杯に投げた。その真白いのが空高くくるくると廻って、水の上にぽちゃりと落ちた。
 なだらかな砂地が快《こころよ》く温まっていた。
 海の岸まで行って、其処に身を投げ出した。
 一色の青のうちに平らに見える海が、一町ばかりの沖の方から大きな波に高まって、やがて白い波頭をふり立てながらざざざざと寄せてくるかと思うまに、頂辺《てっぺん》からどっと崩れて捲き返した。それが無数に連って、松林と砂丘との真直な九十九里ヶ浜を、眼の届く限り遠くまで……末は茫とした水煙のうちに霞んでいた。耳を澄すと、ごーという地響きに似た音だった。その合間に、ごく近くに、さらさらと軽やかな音とも云えない音がする。風に吹かれた金砂が、日の光りに粉のように輝いて、浜辺を一面に走っているのであった。濡れた海水着が、いつのまにかそれを一杯浴びていた。
「そんな強い風でもないのに、ひどい砂ね。」
 独語《ひとりご》った姉の言葉に、俊子は沖の方を見ながら答えた。
「だって可なり強いんでしょう、あんなに波が立ってるから。」
「それは外海の波ですもの、風がなくても高いわよ。」
 だが、一処、妙に波が低くて白く捲き返さない場所が、すぐ向うに見えていた。
「あら、あすこはどうしたんでしょう。」
 俊子ばかりでなく、姉もまだそれを知らなかった。
「あすこで泳ぐと面白いんですよ。」
 そう云って彼は眼を円くしてみせた。
「どうして。」
「一里ぐらい沖まで持って行かれちまうんです。」
「え、沖へ?」
「潮の加減で引力が強いんです。それに乗ったが最期、沖へ流されるより外ありません。普通に、みお[#「みお」に傍点]と云ってますが、漁夫達でさえ恐れてるくらいです。そんなのが方々にあるから、この海ではうっかり泳げません。毎年死ぬ人があるんですよ。」
「本当?」
 姉が吃驚《びっくり》した顔をして彼の方へ向き直った。
「本当ですとも。もっと面白いことがありますよ。地引網《じびき》にね、時々大きな鱶《ふか》や鮫《さめ》がかかってくることがあるんです。するとその腹の中から、人間の頭がよく出てくるんですって。」
「まあ、いやだこと!」
 その叫びにも無頓着かのように、俊子はやはりじっと沖の方を見続けていた。
「もう帰りましょうよ。何だか気味が悪いから。」
 広い砂浜には、太陽の光りがじかに照りつけてるきりで、誰の姿も見えなかった。彼方に数隻の漁船が、置き忘られたように静まり返っていた。
「海を見てると、何だか引き込まれるような気がするものね。」
 俊子はそう云って、初めて我に返ったらしく立ち上った。

     三

 気味が悪いと云いながらも、姉は地引網を引張ってやるのが好きだった。
 朝早くから十時頃まで、波がさほど高くない時、海岸の方々でそれが行われていた。
「立って見てねえで、手伝ってくれたらよかんべえ。」
 そういう囁きが耳にはいってから、姉はいつも着物の裾をからげて、逞しい男女の間に交って、地引網の綱につかまった。一生懸命に引張ってはいるのだが、つかまってるのと大差なさそうだった。彼も時々綱を引いてみた。沖に引かれる力の強さを手に感じて、ともすると足がよろけそうだった。ただ俊子は、少しも手出しをしなかった。
 鯵や梭魚《かます》の類が、少い時は桶四五杯多い時には三四十杯も取れた。特殊な魚だけを別により分けて、残ったのを桶一杯ずつ砂の上に積み上げた。買手が大勢来て待っていた。
「手伝った東京|者《もん》に、これをくれてやるべえ。」
 幅利きらしい男が大きな太刀魚をぽんと投ってくれた。
「有難うよ。また手伝うべえ。」
 姉はおかしな調子で云い捨てて、まだぴんぴんしてる太刀魚を、尾《しっぽ》でぶら下げながら飛んでいった。
「豪勢威勢のええ女《あま》っちょだなあ。」
 地引が上ると漁夫達は皆機嫌がよかった。姉も機嫌がよかった。
「どう?」彼女は俊子の前に手の魚を振ってみせた。「私が海にはいってつかまえたのと同じことよ。」
「そうね。」
 苦笑とも揶揄ともつかない俊子の言葉に、姉は一寸意気込んでみせた。
「私は海で鍛えた真黒な人達の間に交って、その生活を味うのが好きよ。あなたはもっと元気にならなくては、折角海に来た甲斐がないわよ。松原を歩いたり海岸をぶらついたりするきりでは、つまらないじゃないの。」
「私には、馴れないせいか、自然の方が面白いような気がするわ。」
「どうして。」
「どうしてって、云ってみれば、海には海の大きな霊といったようなものが感じられるから。」
「また例のロマンチックが初ったのね。」
「そうじゃないわよ。私此処に来てはじめて、海には海の霊があることを、どうしても否定出来ない気がしてきたのよ。……静夫さんはどう思って?」
 彼は何と答えてよいか分らなかった。が兎に角、彼女の言葉をじっと聞いてると妙に不安になった。
「そんなことを云ってた漁夫があります。」
「そんなら、」と俊子は姉の方を向いた、「私の方が漁夫の生活によっぽどよく触れてるわけじゃなくって。」
「駄目よ、あなたのはみんな空想だから。」
「そうかしら。」
 振り返ると、海は波頭に朝日の光りを受けて、沖遠くぎらぎら輝いていた。その輝きが無くなる頃から、海鳴の音が更に高まってくるのだった。

     四

 俊子の所謂海の霊を、彼女が最もよく感ずるらしいのは、夕方から夜にかけてであった。
 彼等が借りてる別荘とも百姓家ともつかない家は、その部落と松林との境に在った。
「早く御飯にして散歩に参りましょう。」
 明るいうちに夕食をして、大儀だからという伯母と女中とを残して、若い者だけで散歩に出た。
 松林の裾を廻って、薩摩芋の畑の間を少し辿ると、川の岸に出る。橋を渡った向うが低い堤防をなしていて、その向うに青々とした水田が、はるか海岸の砂丘まで連る。
 華かな残照が西の空に残っていた。海を渡り稲田の上を渡ってくる風が、昼間の暑気を吹き払って、遠い夕靄のうちに流れ迄んで[#「流れ迄んで」はママ]ゆく。その風の反対に、所々に川柳の茂みを持った堤防を海の方へ、三人は楽しげに語りながら下っていった。ゆるやかな川の面に落ちていた三つの淡い長影が、茫と水の色に融かし込まれる頃になると、話はいつのまにか途絶えていた。姉は歌を歌い出した。俊子がそれに和した。ダニューブ河の歌やローレライの歌がくり返された。古臭い歌だなと思っていた彼も、いつしかその調子を覚えてしまった。ただ口に出しては歌わなかった。
 海岸へ出る頃には、黄昏《たそがれ》の明るみが月の光りに代りかけていた。茫と青白く光る海岸線が、魔物のような波音をのせて遠く続いていた。
「いつまでも歩きたいような晩ね。」
「ええ……でも、沖の方を見ると何だか恐いようね。」
 薄ら明りに変に大きく見える手を伸べて、姉がさし示した沖合は、ただ一面の黒に塗られて、淡く射す月の光りと波音とを、底知れぬ深みへ吸い取っているようだった。
「だけど、沖に出てみると案外恐ろしくないかも知れないわ。丁度、墓地は外から見ると恐いけれど、中にはいると何となく賑やかだというじゃないの。海も墓地と同じようなものじゃないかしら。」
「そんなら私なお恐いわ。幽霊船でも出て来たら、あなたどうして?」
「そうね……。」
 暗い海を背景にして仄白く浮出している俊子の顔が、一寸揺れたかと思
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