うと、低いおどけた声で、
「ばアーと云ってやるわ。」
それが変に不気味だった。
「いやな人!」
投げ出すように云った姉の言葉のすぐ後を、彼は横合から続けた。
「この沖にも幽霊船が出ることがあるんですって。」
「嘘!」と云った姉の声は少し慴えていた。
「嘘ではありません。船の姿が見えないのに櫓の音が聞えたり、真黒な帆前船がすーっと側を滑りぬけたりすることが、よくあるんだそうです。」
「それは、風の工合で遠い櫓の音が聞えたり、本当の船をそんな風に感じたりするんだわ。」
「所が変なんです。或る時沖に釣に出た船が、夜になって戻って来たことがあるんです。その漁夫達の話ですが、薄暗くなって帰りかけると、いくら櫓を押しても船がなかなか進まなかったんですって。それでも一生懸命に漕いでると、不思議なことには、一町ばかり離れた後ろの方から、やはりせっせと漕いでくる船があるんです。櫓の音も掛声もしないのに、船の姿や人の影だけがありありと見えていて、その上、近寄りもしなければ遠ざかりもしないで、いつも同じ速《はや》さでついて来ます。少し気味悪くなってきたので、漁夫達は力のあらん限り漕ぎまくって、漸う岸まで戻ってきて、ほっと後ろを振り返ると、今まで同じ速さでついてきていたその船が、何処へ行ったか消え失せてしまってるんです。その時はほんとにぞーっとしたと云っていました。」
まあーと云ったように、姉は眼をきょとんとさし口を開いて、彼の顔を見守った。
「そんなこともありそうですわ。」と俊子は静かな声で云う、「海には一つの霊がないとしても、何かのいろんな霊が籠ってるに違いないわ。」
波の音がその声を、上からどーっと押っ被せてしまった。が、その波音の中にまた何か変な気配がした。上を仰いで見ると、一羽の黒い鳥が低く飛び過ぎた。
彼はぎょっとした。思わず俊子の方へ身を寄せると、俊子は眼と口元とで軽く微笑んでみせた。その顔が怪しく美しかった。彼は胸の中でぎくりとした。度を失ってまごついてると、俊子は瞬間に眼を外らして、腕につかまってきた姉の方へ云っていた。
「臆病な方ね。鳥じゃないの。」
「だって、私何かと思ったわ。生きたものならちっとも恐かないけれど、怪しい変なものは大嫌い。」
「私はまた、お化《ばけ》ならちっとも恐かないけれど、人間が一番恐いわ、何をされるか分らないから。」
月の光りが急に明るくなってきて、広い砂浜が蒼白く輝らし出された。
五
彼は朝早く起きるのが好きだった。鶏の声が聞えて東の空が白む頃から、何物にも遮られない、仄白い――而も澄み切った朝明りとなった。ここ荒海の岸辺では、夜と昼との境をなす朝霧は、一度夜が明けてから後に初めて、森や部落のまわりに立ち罩めるのだった。黎明の頃は大気が澄みきっていた。日出前に東の空へきまって出てくる黒雲の縁が、黄や紅に彩られて、それがじかに朝明りの中へ反射した。魂の底まで浄められるような曙だった。
「姉さん起きなさいよ。日の出を見に行きましょうよ。」
二三度|掻《ゆす》ぶられて、姉は漸う眼をこすりながら起き上った。まだ一度も、海から太陽の出る所を見たことがなかった。
「そりゃ何とも云えねえぞうー。見た者でなきゃあ分んねえ。」
水瓜《すいか》を売りにくる婆さんがそう云った。だが、日出時の東の水平線は大抵雲に閉されていた。
「晴れてるの。」と姉は尋ねた。
「ええ。」
曖昧な調子の返辞だったが、それでも姉は起き上ってきた。
これが例の二葉より香しというあの木かしらと怪しんだ、大きな旃檀《せんだん》の木の下に転ってる、木の切株の上にあがって、更に爪先で伸びあがって、東の空を透しみたが、まだ黝ずんでる大空の色と見分け難いほどのものが、低く横ざまに流れていた。
「あれは雲じゃないの。」
「さあー……。」
横飛びに飛んで、向うの無花果の木の低い枝につかまり、ぴょんと跳ねて葉の間から覗くと、黒雲の下がすっと切れて、紅をぼかした銀色に輝いていた。
「大丈夫ですよ、下が切れてるから。」
海鳴の音がいつもよりはっきり聞えていた。地引網の喇叭が響いてきた。たとい日の出が見られなくとも、損にはならなかった。それにもうどうせ起き上ったのだから。
「俊子さんも起してくるわ。待っていらっしゃい。」
彼が深呼吸をしてる間に、日に焼けた姉の浅黒い顔と俊子の蒼いほど白い顔とが、ふわりと飛んできた。
草の葉末にたまった露を踏んで、粗らな松林の裾をぬけると、その向うがすぐ海だった。松の間から東の空がちらちらと見えていた。
「あら、あんなに雲がかけてるわ。」
僅かな雲だと思ったのが、暫くの間に東の空を蔽い隠して、なお次第に拡がりそうだった。
「仕方ないから地引網の綱でも引くんですね。朝っぱらから景気がいいですよ。」
砂丘の上に、蟻のような人影が見えていた。
「知らないわ。……こんなに早くから人を起しといて!」
つんと澄してすたすた足を早める後から、俊子は落付いた声で注意した。
「でも、他《ほか》で見られないような変な朝ね。」
東の空の大きな黒雲の影に包まれて、盲《めしい》たようなだだ白い明るみが遠くまで一様に澄み切っていた。
真先に歩いていた彼は、俄に足を止めた。松林のつきる処に四五本の雑木があって、その下枝のあたりに、白いものが真円く浮出してゆらりと動いた……と思ったのは瞬間で、よく見るとだらりと垂れ下っていた。
ぞーっと身体が悚んだ。が、引き止めた息が保ちきれなくなった間際に、ほっとした。木の枝に提灯がかかってるのだった。
「どうしたの。」
黙って歩き出すと、此度は喫驚した調子の声で、
「蛇でも居たの。」
彼はやはり黙って頭を振った。何だか白茶けた気持ちになった。ぼんやり眼を挙げて眺めると、提灯は白張りの無紋だった[#「無紋だった」は底本では「無絞だった」]。それが一寸変だった。
「あら、静夫さんは蛇がお嫌い?」
わざと不思議がったようなしなをした声だった。
「ええ、可笑しいほど嫌いなのよ。」と真中に居る姉が答えた。
「そう。私はどちらかというと好きな方よ。」
「蛇が!」
「ええ。もとは嫌いだったけれど、だんだん好きになるような気がするわ。一番いやなのは蚯蚓、ぬらぬらしてるから。」
蚯蚓がいやで釣が出来ない自分のことを思い出して、彼はふと振り返ってみた。
俊子はもう眼を地面に落して、其処に匐ってる蚯蚓の上を飛び越していた。その顔が、気のせいか、提灯と同じような白さに見えた。
六
晴れた日には、地引網を見たり、水にはいったり、散歩をしたり、松林の中に迷い込んだり、畑の薩摩芋を盗みに行ったり、遊ぶことはいくらもあったが、雨の日は退屈で仕方がなかった。雨と云えば大抵風雨だった。
南寄りの東に海を受けてる土地だったが、海鳴の音は多く南か北かに聞き做された。南で鳴れば不漁、北で鳴れば大漁、としてあるその海鳴が、風雨の晩は南にも北にも聞えた。その響きに包まれて、雨と風との音がざあーと雨戸にぶつかってきた。
「あれ、今時分どうしたんでしょう?」
耳を澄すと、なるほど地引網の時と同じ様な喇叭の音が、遠くかすかに伝わってきた。
「船上げですよ。」
「船上げってなあに?」
「波が高いから、漁夫《りょうし》達を集めて船をずっと陸の方へ引上げるんです。姉さんはそんなことも知らないんですか、通《つう》ぶってるくせに。」
やりこめられたことも知らないで、姉はただ不安そうに眼を見張った。
「そんなに波が高いかしら。……いやな音ね、難破船でもありそうな。」
「あるかも知れませんよ。」
ランプの光りが妙に薄暗く思われた。
「今にこのランプの光りが暗くなってくると、海坊主がのっそりとはいって来るかも知れません。」
「馬鹿なことを仰言い。海坊主なんていうものが居るものですか。」
「居りますとも、現に見た者があるんです。」彼は口をつんと尖らしてじっと姉の顔を見つめた。「夜遅く漁から帰ってきますとね、俄に海が荒れ出して、それを乗りきってゆくうちに、人間の形をした真円い山が向うに聳えているんです。然し一日のうちにそんな山が出来るわけはありません。こいつ怪しい奴だなというので、船頭達は力一杯櫓を押しながら[#「押しながら」は底本では「押しなから」その真中目がけて船を乗りかけたものです。すると、山の中を船がすーっと抜けた、山は後ろにやはり聳えてるんです。船頭達は胆をつぶして、なおえっさえっさ漕いで行くと、何処からともなく温い風が吹いてきて、眼も口も鼻もないノッペラボーが船の舳に手をかけて、ぬっと伸び上って、それから……恐いかあー……。」
「何ですね、変な声を出して?」と伯母が横合から笑いながら口を入れた、「それは姐妃のお百の海坊主じゃありませんか。」
「伯母さん知ってるんですか。そんなら話すんじゃなかった。」
姉はほっとした様子で、それでもなお気味悪そうな色を浮べて、姉の方を睥んだ。
「おどかそうたって駄目よ。化物なんか居るものかと云ってた癖に、化物贔屓の俊子さんがいらっしたものだから、すっかりかぶれちゃって、つまらない話をしてるのね。」
「あら私が化物贔屓だなんて……。」
とは云っても、俊子は眼付で笑っていた。
それきりあたりがしいんとしてきたのを、姉は突然大きな声で、「さあ、先刻の続きをやりましょう。」
船上げの喇叭に中断せられたトランプが、また初められた。
云い出した姉へ、彼は美事にスペートのクインをつけてやった。そこへまた姉は、俊子からスペートの五を背負い込ませられた。
「いいわ、覚えていらっしゃい。分ってるわよ、化物同志で私をねらってるのね。」
俊子は彼と眼を合わして、くすりと笑った。口元に指で押したような凹みが寄って、ちらと瞬いた睫毛が、鳥の翼みたいな影を眼の中に落した。
ハートの切札の時に勝つようにと、彼は何がなしそんなことを心に念じた。
けれど、そういう遊びのうちにもともすると、真暗な夜が忍び込んできた。風はいつのまにか止んで、しとしととした霖雨を思わせる雨音だった。それがなお戸外の夜の暗さを偲ばせた。此処に来て初めて、鼻をつままれても分らない闇夜を知ったという、その暗闇が室の隅々から覗いていた。
「明日《あした》も海が荒れそうですね。」
南に廻った海鳴の音をじっと聞いていた伯母が、トランプの方をそっちのけにして云った。が誰も返辞をしなかったので、伯母は一旦噤んだ口をまた開いた。
「もう二三日で九月ですね。」
滅多に海へも行かない伯母は、早くから退屈して東京へ帰りたがっていたが、俊子のためにというので、皆と共に八月一杯滞在することになっていた。その八月がもう二三日きりとなってるのだった。
「あと僅かだから、うんと遊びましょうよ。私徹夜しても構わないわ。」
だが、そういう姉の声も、昼間からの遊びに疲れはてていた。
「負けると猶更止められなくなるんですってね。」
「あら、あなたの方が負けが込んでるじゃないの。」
「そうかしら。」
点取りの表を覗き込んだ俊子の細そりした頸筋が、彼の眼の前に滑らかな皮膚を差伸べた。
七
明日東京へ帰るという日は、朝から綺麗に晴れていた。これを最後だというので、地引網にゆき、海岸をぶらつき、水にはいり、また松林の中を歩いた。春には松露《しょうろ》が沢山取れるという松林の中には、所々に名もない箪が出てるきりだったが、その代りに、尾長《おなが》と俗に呼ばれてる白と黒と灰と三色の美しい鳥が沢山居た。巣立ったばかりの雛が枝から枝へと危っかしく飛び移っていた。
彼はその雛の小さいのを一つ、松から揺り落して家の庭に持って来た。持っては来たが、さてどうしていいか分らなかった。
「あら、なあに?」
張りのある澄んだ俊子の声が響いたかと思うと、此度はやはり彼女の喉にかかったゆるやかな声が、
「まあ、可愛いいんですね。」
飯粒を持って来てくれてやったが、食べようともしなかった。地面に置かれるときょとんとした眼付をしてじっとしてるのに、掌
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