な気がして、自分でも恐ろしくなった。足が悚んで動かなかった。
けれど、姉の方が妙に悚んでいた。蒼ざめた顔をして、頬の筋肉をぴくぴく震わしていた。
彼は黙ってその前を通りすぎた。
「何処へ行くの。」
帽子を取ってる時に、後ろから呼ばれた。
「一寸散歩にいってきます。」
「今日はお止しなさいよ。」そして次に哀願の調子で、「行かないで頂戴よ、つね[#「つね」に傍点]やも居ないし、私一人だから。」
「つね[#「つね」に傍点]は何処へ行ったんです。」
「一寸其処まで。」
帽子をまた釘にかけて、黙って自分の室へ戻ってゆき、縁側に腰をかけて、足をぶらぶらやってると、彼は急に淋しくて堪らなくなった。
「なぜかは知らねど心迷い、むかしの……。」
ふと口に出てきた歌を、何度も何度も低くくり返した。俊子が何処かに立ってるような気がした。
薄曇りの佗びしい夕方だった。かさかさと枯葉の音がする。それが胸にしみ渡った。耳を澄していると、静に表の格子を開く音がした。それから一寸間を置いて、喘ぐような声で、
「急いで来たものだから息が切れて。」
「御免なさい、ふいにお呼びして。」
「いいえ。そんなにお悪いの。」
「それがねえ……、」
とだけ聞えた。
玄関でひそひそ話してるのは、姉と俊子だった。
彼は我を忘れて立ち上った。頭がかっとして胸騒ぎがした。まごまごしてる所を、玄関から上ってくる俊子とばったり眼を見合った。どうにも出来なかった。頭を垂れて、其処に坐った。熱い塊りが胸の底からこみ上げてくるのをじっと堪《こら》えた。
俊子はつかつかとやって来た。
「御病気ですってね。ちっとも存じなかったものですから……。」
それを姉が側から引取った。
「いえ、病気というほどのことじゃないのよ。神経衰弱ですって。」
「そう。」
一寸まごついた其場しのぎの返事をして、姉と意味ありげな目配せを交した後に、また彼の方へ向いて、
「海は頭に余りよくありませんのよ。私も帰ってから四五日の間は、何だかぼんやりしていましたわ。」
それらの様子が変だった。が、青っぽい羽二重の帯を胸高にしめ、上からお召の羽織を背抜き加減に引っかけて、その紐を胸に小さくきっと結え、無雑作に分けた髪を耳の上で一つねじって低めに束ね、細い頸筋を差しのべて、心持ち眉根を寄せながら、睫毛の長い澄みきった眼で彼の方を窺ってるのは、やはり以前から見馴れた俊子だった。
「おかしいぞ、」と思う心が眼に籠って、彼女の顔をじっと眺めた。眼を外らしたのを、更にまじまじと眺めてやった。
「どうしたのよ、黙ってばかりいて。」
その方へ眼をやると、姉もまた顔を外らした。
「どうしたんです。」とこちらから尋ねてやりたいくらいだった。が、それから彼女達が、学校――二人は女子大学の同窓だった――へは十五日頃からで大丈夫だ、というようなことを話し出したのを聞いてると、少し分りかけてきたような気がした。
「今日は幾日です。」
「八日よ。」
姉の言葉と一緒に、鼻の高い痩せ形の真白い顔がこちらへ向けられたのを見て、彼は妙にぎくりとした。頭の中がまたもやもやとしてきた。
十一
無理に姉へねだって夕食の時少しばかり飲んだ酒のために、彼は身体がぐったりしてしまった。寝転んでると、自分でもおかしいほど眠くなった。姉と俊子との話を音楽のように聞きながら、いつのまにか眠ったらしい。
眼を覚すと、室の中には誰も居なかった。電灯の光りが余り明るすぎた。寝返りをしてみた――いつのまにか枕をして褞袍を着ていた。
「静ちゃん、眼がさめたの。」
わざと返辞をしなかった。
暫くすると、また次の室から前より低い声で、
「俊子さんもいらっしゃるから、トランプでもしませんか。」
それでも黙っていた。俊子が帰ろうともしないで落付いてることが、食後姉と物影でひそひそ話していたことが、頭の底で気にかかっていた。
あたりがしいんとした。
長い時間がたったようだった。……
「そんなでもないじゃないの。」
「あなたは夜中のことを知らないからよ。」
「毎晩なの。」
「いいえ、一晩置きくらい。」
「そう。不思議ねえ。」
「親戚に精神病の人は居ないかって聞かれた時は、私どうしようかと思ったわ。」
「だって、あれくらいならまだ大丈夫よ。伯母さんやなんかに相談して大袈裟になると、却って神経を苛立たせはしないかしら。」
「それもそうね。」
「も少しそっとしておいて様子を見た方が……。」
……それで分った。彼はもう我慢が出来ない気がした。口惜しかった。いきなり起き上って、次の室に飛び込んだ。
色を失った二つの顔が並んでいた。
「姉さんは、人を気狂い扱いにしてるんですね。」
見上げてる二つの顔が瞬きもしなかった。
「私は気が狂《ふ》れてやしません。」
怒鳴りつけると、胸がすーっとした。同時に全身の力がぬけてしまった。其処に身を投げ出して泣いた。
肩の上に手が二つ置かれた。やさしい息が耳のすぐ側に感ぜられた。待ってみたけれど、何とも云ってくれなかった。堪らなく淋しくなった。
「云います。みんな云っちまいます。……俊子さんはみんな知ってる筈です。あの晩から、あの海に出た晩から……。」
彼は何を云ってるのか自分でも分からなかった。それでもむちゃくちゃに云い続けた。云ってしまうと、頭の中が空《から》っぽになった。ひょいと顔を挙げると、大きく見開いた姉の眼がすぐ前にあった。姉の手につかまって、俊子が歯をくいしばっていた。
そのままじっとしていた。三人共石のようになって身動きさえしなかった。
空っぽになった彼の頭に、ぽつり、ぽつりと、正しい記憶が蘇ってきた。眼の前がはっきりしてきた。
「俊子さんを想ってるのじゃありません。」
吐き出すように云ったが、その言葉が自分の胸に返ってきて、顔が真赤になった。それをごまかして立ち上った。……が、どうしていいか分らなかった。右足でとんと跳ねて、つんと伸した左足の踵で、ぐるりと廻った。二度廻ってから云った。
「もう何ともありません。」
頭の中がはっきりしてきた。余りはっきりしたので、それが一寸変だった。も一度左足の踵で廻った。
俊子がはらはらと涙を落した。
彼はふーっと息をした。頭の中がしっかりしているのを感じた。
静かだった。虫の声が雨のように繁く聞えてきた。外には月が冴えていそうな夜だった。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
1921(大正10)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
2008年10月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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