囁く。「恋すな、恋すな!」とまた囁く。
それに耳を澄すと、「凡て空なり!」初秋の風の音がごーっと鳴っていた。
八
「今じきにいくから、遠くへ行かないで待ってて頂戴。」
こまこました道具を明日の出発のために片附けていた姉は、そう云いながらもやはりゆっくり構え込んでいた。はいりきれないほどの品物をどうにかつめ込もうと、バスケットの側にいつまでもくっついてる伯母の方は、姉よりも更に気長だった。
「ほんとにいい月よ。」
俊子の言葉をきっかけに、彼もぷいと外に飛び出した。
東の空に出たばかりの月は、松林に距てられて見えなかったけれど、ランプの光りの薄暗い家の中よりは、もっと明るいぱっとした夜だった。物の影が長く地を匐ってる上を、二人は黙って海の方へ歩いていった。
踏み込むと冷りとする叢の中で、虫がしきりに鳴いていた。それへ月の光りがくっきりと落ちている処で、二人はふと足を止めて、姉が来るのを待った。
「私何だか明日帰るのだという気はしませんわ。静夫さんは?」
明日帰ることばかりではなかった。此処に来たことが、今こうしていることまで凡てが、夢のように思われた。黙ってると、
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