波の音が遠くに聞えだしてきた。
「海は実際いいですね。」
「ええ、ほんとに!」
 と俊子がすぐに応じてくれたけれど、変に気まずく思われた自分の言葉の調子が、まだ彼の頭から去らなかった。つと横を向いて、大事に持ってきたABCに火をつけた。
「いい匂いの煙草ですわね。私も吸ってみようかしら。」
 彼が黙って差出したのを、彼女は笑いながら一本取ったが、
「ああ、これは駄目。吸口がないから。」
 戻されるのを受取る拍子に、息がつまるような甘っぽい化粧の香りが、ぷんと彼の鼻にきた。
 姉はいつまでも来なかった。
「海まで行ってみましょうか。」
 その顔を何気なく見上げると、白々と月の光りに輝らされた中に、底光る黒目と赤い唇とが、まざまざと浮出して見えた。
 彼は身体が堅くなるのを覚えた。静かな夜、月の光りの中に、彼女と二人で立ってることが、息苦しくて不安だった。余りに目近く彼女の側に居ることが、しみじみと胸にこたえて、身の動きが取れなかった。それを、黙ったまま歌も歌わないで、彼から追っつかれるのを待つかのように、ゆっくりと足を運んでる彼女の後ろ姿が、ぐいぐい引きつけていった。黒い髪のはじから覗い
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