何なるものであったかを、感ずる筈である。
 初代キリスト教徒等が偶像を拝したのは、彼等の信仰の堕落ではなかった。また、東ローマ皇帝レオ三世の禁令によって或る教徒等が偶像を破壊したのも、決して彼等の信仰の堕落ではなかった。罪は偶像にはない。罪は彼等の心の中に在ったのである。偶像を作るのが悪かったのではない、偶像に囚われたのがいけなかったのだ。
 偶像を作る心理は、芸術製作の心理とほぼ同じ様なものである。彼等はその中に自己の感情を、止むに止まれぬ心情の発露を吹き込むのだ。心象を具体化するのだ。主観を丸彫りにするのだ。然し乍ら偶像は常にその作者の生命と直接に向き合っていなければいけない。生のままの息吹きが籠っていなければいけない。玩弄せらるる時、偶像は死滅する。更に云い換えれば、偶像は具体化せられたる直覚だ。偶像とそれを拝する人との間には何等の間隙もあってはいけないのだ。
 抽象的なる人の直覚、主観は、たえず発展し進歩する。然るに具体化せられたる偶像の発展は甚だ困難である。其処に偶像と人との間に間隙が生じて来る。その間隙を無くして自己の生命を保たんがために、偶像は無理に人を自己の方へ引き止め
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