妙に清く透き通っているようで、一種の神聖な光りさえ帯びてるようであった。その眼はじっと空間を見つめていた。そしてそのままの姿勢で彼女は静かに云った。「これで宜しゅうございましょう。」
それが私の巫女に就いての最初の記憶である。それから、私はまたよく母の代理で(母も一種の信仰家であった)同じような祈祷をする神社に参詣したことがあった。そしてそれらの雰囲気は今でも時々私を誘惑する。
それらの祈祷の利益如何は別問題として、巫女がその祈祷に身を打ち込んでいる瞬間は、真に貴い瞬間のように思える。そして彼女等の礼拝する種々な偶像は、彼女等にとって、全く自己の魂をうち込んだ生きたもの、もしくは現在眼に見える神体であるに違いない。それらの偶像は、それを信仰しない若しくはそれに自己の魂を吹き込まない人々にとってのみ破壊すべきもので、彼女等にとっては決して破壊すべきものではない。
もしメレジュコフスキーの「背教者ジュリアノ」や「先駆者ダ・ヴィンチ」などを読んだ人は、その中に書かれた邪教の偶像がその邪教徒等に取って如何なるものであったかを、感ずる筈である。それからまた他の人々に取ってはそれらの偶像が如
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