牛配乳達の」]ため、わたしたちの生活気分が次第に乱されてきたのである。
 わたしは数日後、自分の楽しみの一つが無くなったのに気付いた。牧場前の茶店は、農家風のしっかりした家ではあったが、店としては縁台と上り框だけで、ほんの掛茶屋にすぎないし、ふだん、家の人たちは牧場に仕事に出ていて、お婆さんが留守をしてるきりである。わたしはそこで、渋茶をすすりながら、お婆さんからいろんな話を聞くのが、楽しかった。また、そこまでの往き帰り秋草を眺めたり、小さな林をぬけたり、清い川底を覗いたりするのも、楽しかった。一升瓶を下げて歩くことなんか、大したことではない。いえ、手ぶらで、当もなく散歩するなんか、却ってつまらないのだ。小野田さんのおせっかいのため、わたしは楽しみを奪われてしまって、あまり外にも出なくなった。少し遠くにある町の方への用事は、町外れにある矢野さんの別荘の番人が、五日めごとにやって来て、すっかり済ましてくれるのである。
 わたしの不平はそれぐらいだったが、お姉さまの気持ちが少し変ってきた。
 小野田さんのことを、はじめ、お姉さまはただ聞き流されただけだったが、いつのまにか、たいへん気にかけなさるようになった。
 なんでもない時に、お姉さまはふとお洩らしなさったことがある。
「あのひとは、きっと、わたくしに大事な御用がおありなさるに違いない。」
 びっくりして聞き返そうとすると、お姉さまは、きゅっと唇をゆがめていらっしゃる。わたしは何にも言えなかった。
 小野田さんが午前中に来ないと、お姉さまはなにかじれて、わざと大きな声でお言いなさったこともある。
「小野田さんは、今日はどうなすったのかしら。」
 時々、小野田さんが来る頃の時間を見計らって、お姉さまは庭に出て、籐椅子にじっと腰掛けていらっしゃる。庭の芝生の外は低い生垣になっていて、外庭と仕切ってあり、その生垣越しに、門から勝手口へ行く小道の方が見える。或る時、お姉さまと小野田さんとが、生垣越しに会釈を交わされてるのを、わたしは見た。けれど、一度も、言葉を交わされたことはなかったらしい。
 けれど、わたしはお姉さまを見張っていたわけではない。とんでもないことだ。その上、わたしはなかなか忙しかった。牛乳でいろいろなお料理を拵えなければならなかった。バタのお料理がいちばんよいそうだけれど、お姉さまはもうバタの味に飽き飽きして、せいぜい牛乳のお料理だけしか上らないし、このお料理がまた厄介なのだ。そのほか、こまこました御用がたくさんある。お姉さまの食器やなにかは、用心のため消毒しなければならない。野島先生が週に二回いらして、お姉さまにいろいろな注射をなさる。時には見舞客もある。お母さまは体が肥っていて、あまりお動きなさらないので、わたしがくるくる働くのである。
 お三時に牛乳を飲んでいると、お姉さまはふと手を休めて、お言いなさった。
「この牛乳、少し馬くさくありませんか。」
 わたしはくくくと笑った。ところが、お母さまは真面目にお答えなさる。
「そうねえ、馬くさいのかしら。」
 お姉さまも真面目に考えていらっしゃる。
 わたしは笑いを殺して言った。
「だって、馬に乗せていらしたんですもの。お嫌だったら、わたくし、これから取りに行っても宜しいわ。」
「いいえ、いいのよ。」お姉さまは妙にきつくお言いなさった。「ただ、馬の匂いがするような気がしただけ。わたくしなら、構わないわ。」
 そのような、いろいろなことがあったが、少し不気味なことが起ってきた。
 お姉さまは、夕食後はやくお休みになる。お母さまは、たいてい、毛糸の球をころがして、お姉さまの冬のスェーターなど編んでいらっしゃる。わたしは読書だ。お姉さまにはあまり読書はいけないのだけれど、退屈だろうからって、川井の伯父さまから、セークスピアの翻訳全集と世界童話大系と二揃い、たいへん嵩張った書物が送ってきた。伯父さまが誰かに相談なさった結果だろうと思うけれど、わたしにはそんなもの面白くなく、文学雑誌など買ってきて読むことにしていた。けれども、夜分、電気の光度が弱いので、時折はセークスピヤなど朗読させられることがある。面倒くさい台詞などはとばして、いい加減に読んでゆく。お母さまはいっこう平気でいらっしゃるけれど、お姉さまは熱心に聞いておいでになるとみえて、少し台詞をとばすと、ちょっと、そこんとこ変ね、と突っ込みなさる。わたしは首を縮こめる。
 そのようにして、或る晩、「マクベス」を読んでいると、お姉さまが低い声でお言いなさった。
「ちょっと。」
 台詞をとばした筈ではなかったがと、お姉さまの方を見ると、お姉さまは、宙に眼を据えて、何かじっと聴き入っておいでになる。いつまでもそのままだ。お母さままで、何か耳を澄していらっしゃるらしい。
 お姉さまはふ
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