牛乳と馬
豊島与志雄

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 橋のところで、わたしは休んだ。疲れたわけではないが、牛乳の一升瓶をぶらさげてる、その瓶容れの藁編みの紐が、掌にくい入って痛かった。どうせ急ぐこともない。牧場の前の茶店まで、家から一キロ半ほどの道を、散歩のつもりで往復するのである。九月にはいると、この高原はもうすっかり秋の気分。咲き乱れた女郎花にまじって、色とりどりの秋草が花を開きかけている。避暑客も少くなり、道行く人もあまりない。あたりの空気がすっきりした気持ちだ。
 途中に、小川があって、木の橋がかかっていた。その橋から川の中を覗くのが、とても楽しかった。川の水は冷たく、清冽とも言えるほど澄みきって、藻草をそよがせながら、深々と流れている。きれいな魚もいるに違いない。その一匹でも見つけたい、せめて小蝦でも、鮠の子でも、と思って覗くのだけれど、何も見えない。それでも、藻の間にちらちら影がさしたり、小石の上にちらと光が流れたりするのが、面白い。それほどきれいな水だった。
 その時も、我を忘れて、橋の欄干から身を乗り出し、川の中を一心に覗いていた。すると、突然、馬の足音が聞えた。駆けてくるのだ。すぐそばに、身近に、ぱかっぱかっと駆けてくる。振り返ると、もう馬は橋にさしかかり、わたしの方へ真直に向ってくる。よける隙もない。あ、と声を出すと同時に息をつめ、橋の反対側へ飛びのいたが、馬はそっちへ来るし、わたしはまたこちらへ飛びのいたが、危い、と思うと共にまたあちらへ飛びのいた。とたんに、真黒な風のようなものが身を掠め、わたしは欄干にすがりついて屈みこんだ。
 つぶっていた眼を開くと、橋を渡りきったすぐそこに、馬は止っていて、男のひとが馬から降り、手綱を引っぱって戻ってきた。わたしは少し極りわるく、立ち上って、無意味にお時儀をした。
「怪我はなかったでしょうね。」
 わたしは無言で頭を振った。
「動かないでおればいいんですよ。いきなり、道の真中に飛び出してくるもんだから、こっちでびっくりしちゃった。」
 ずいぶんぞんざいな言葉つきだ。
「あ、こいつあいけない。」
 言われてからわたしも気づいた。用心のため、橋の欄干から少し離して、地面に立てて置いといた牛乳の一升瓶が、馬に蹴られたのであろう、二つに割れて、地面に白く牛乳が流れている。そのひとはすぐ、藁編みの瓶容れを拾いあげ、じっと眺めて、残ってる瓶の下部をつまみ取り、乱暴に川の中に投り込み、地面の瓶の破片も、足先で乱暴に川に蹴込んで、それから瓶容れを私の手に返した。
「粗相しちゃった。すみません。」
「いいえ、宜しいんですの。」
 そのひとも、馬も、わたしの方を見ていた。わたしも相手を見た。
 男の年齢はわたしには見当がつきかねるけれど、三十前後だろうか、鳥打帽に薄羅紗のジャンパー、乗馬ズボンに赤の長靴、全体が茶色がかった色調で、きりっとした身なりである。馬の年齢もわたしには見当がつきかねるけれど、まだ若いらしく、でもサラ系ではなく、ありふれたつまらぬもので、ただ、鞍だけは立派である。
「牛乳は、どこで買ったんですか。」
 隠すほどのことでもないから、わたしはありのまま答えた。
「ほう、あすこの茶店にたのんで……。」
 なぜか、まじまじとわたしの顔を見るので、わたしは歩き出そうとした。
「ちょっとお待ちなさい。馬で一駆け、代りを取って来てあげましょう。茶店になければ、牧場から取寄せて貰います。僕の粗相だから、賠償さして下さい。ここで待っていて下さいよ。決して怪しい者じゃありません。小野田達夫……。」ポケットを探った。「名刺をいま持っていませんが、小野田達夫という者です。この辺で待っていて下さい。すぐ戻ってきます。」
 藁編みの瓶容れをわたしの手から引ったくって、彼は馬に飛び乗ると、振り向きもせず遠ざかっていった。
 わたしは呆気に取られた。悪意はなさそうだが、ずいぶん勝手な人だ。待っていようか、それとも行ってしまおうか。考えながら、川の方へ眼を落すと、彼が蹴込んだ硝子の破片が水底にきらきら光っている。おかしくなった。それに、牛乳もやはりほしかった。特別に新鮮なのをと、あの茶店に頼んで、一日おきに一升ずつ取りに行ってるもので、手ぶらで帰ったら、お母さまは、殊に病気のお姉さまは、がっかりなさるだろう。わたしは待つことにきめた。
 橋の欄干によりかかって、川の底を覗いた。硝子が光っている。あの光りを見て、もしかすると、小魚が泳いでくるかも知れない。けれどいくら待っても、何にも出て来なか
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