った。へんにつまらなくなった。魚が見えないからではなく、硝子の破片なんかあるからだ。
 わたしは橋を離れて、川の土手を歩いてみた。よいお天気で、陽光は暖く、川風は凉しかった。野原に出て、足を投げ出し、青空にくっきり浮き出してる山々を眺めた。
 ずいぶん時間がたったような気がした。遠くに馬の足音がした。知らん顔をしていてやった。
「おーい、おーい。」と馬上から呼ぶ。
 ほかに何とか呼び方もあろうに、と不満だったが、橋のところに戻って来た。
 彼は馬から降りて、満足そうに牛乳の一升瓶を見せたが、わたしには渡さなかった。
「その辺までお伴しましょう。」
 こんどは、いやに丁寧だ。わたしは少し戸惑った。ぶらぶら歩いた。彼はわたしと並び、手綱のあとから馬がついてくる。時々大きな鼻息をするのが気味わるく、虚勢を張らねばならなかった。
「お宅は、三浦さんと仰言るんですね。」
 わたしはびっくりして見返した。
「あの茶店で聞いてきたんです。すると、三浦春樹君の妹さんですね。」
「あら、兄を御存じでしたの。」
「亡くなられる前に、なんどもお逢いしたことがあります。あなたは秋子さんと仰言るんでしょう。どうも、似てると思っていました。」
 わたしは黙っていた。わたしはお兄さまにはあまり似ていないのである。それとも、他人から見れば、やはり似てるところがあるのかしら。
「夏子さんはどうしていらっしゃいますか。」
 わたしはまた彼の顔を見返した。
「みんなの名前を、御存じなんですの。」
「いや、当推量ですよ。春樹さん、秋子さん、だからその間は、夏子さん……。」
 彼はそう言って笑ったが、どうも、へんにあやふやなのだ。真面目なのか冗談なのか、見当がつかなかった。こちらからあまり話をしたくなかった。でも、警戒したわけではない。彼の言行のうちには、なにか普通の作法に外れたようなところがあり、それが傲慢から来るのか天真爛漫から来るのかは分らないが、悪心はないように見えるのだった。それで、わたしはいい加減な受け答えをしてるうちに、あとで気付いたのだが、家の事情をだいたい話してしまったことになった。お兄さまは、日華事変中に中国で戦死されたこと、お姉さまが肋膜を病まれたあと、肺に浸潤が残っていて、避暑と保養とをかねて、お母さまとわたしと三人で、この高原の別荘に来ていることなど。
 ぽつりぽつりと短い言葉を交わしながら、とうとう家の近くまで来てしまった。
「ついでに、お母さんにちょっとお目にかかっていきましょう。お願いしたいことがあるんです。」
 嫌だともわたしには答えられなかった。
 彼は馬がいるからと言って、家の中にははいらなかった。
 お母さまは、いつもおおまかでのんびりしていらっしゃる。馬の轡をとってる彼と、門の前で立ち話をしながら、始終にこにこしていらして、時々ほほほと低くお笑いなすった。彼は、さっきの橋の上の出来事を話し、嘗て中国でお兄さまと交際があったと言い、自分はこちらに避暑に来てるのだが、友人たちは東京に帰ってしまい、退屈のあまり馬ばかり乗り回してるのだが、ついては、ただ当もなく馬を駆けさせるのも倦き倦きするし、牧場の前の茶店まで牛乳を取りに行くことを、自分に任せては下さるまいかと、押しつけるように頼んでしまった。
「是非そうさせて下さい。そうすれば、お嬢さんも楽になるし、僕も気晴しになるし、馬も駆けがいがあるし、僕はあの茶店で、二合ずつ牛乳を飲んでくることにしましょう。但し、運賃を頂こうなんて失礼なことは申しませんし、また、こちらの牛乳代を僕がお払いするなんて失礼なことも申しません。明日はよろしいんですね。では、明後日から実行致しますよ。」
 はじめは、お母さまもお断りなすったが、あとでは、宜いとも悪いとも言わずに笑っていらした。
「お嬢さん、ちょっと紙きれと鉛筆を貸して下さい。」
 それをわたしが持ってくると、彼は居所と氏名とを書きつけた。
「御疑念には及びません。こういう者です。」
 彼の居所は、わたしの家から二キロばかり離れたところらしかった。彼が馬に乗って立ち去ると、お母さまは仰言った。
「この節は、ずいぶん風変りな人が出て来たねえ。だけど、春樹さんも、生きていたら、あんなかも知れないね。」
 お母さまは頬笑んでいらしたが、わたしはなんだか不安な気がした。

 彼――とはこれから言いにくいから、小野田さんと言うことにしよう――小野田さんは約束を守った。一日おきに、午前中、わたしの家に馬を駆けさしてきて、牧場前の茶店からの牛乳を届けてくれた。お母さまがいくら勧めても、決して家の中にあがることはなく、お茶一杯飲むこともなかった。馬上の牛乳配達、とわたしは冗談に言った。
 ところが、ふしぎなことに、その馬上の牛乳配達の[#「牛乳配達の」は底本では「
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