いに咳をなさった。
「馬の駆けるような音がしたんだけれど……。」囁くようなお声だ。
 お母さまは編物の手を休めて、まだ耳を傾けていらっしゃる。
 虫の声がするきりで、しいんとした夜だった。わたしもちょっと変な気がして、もう読むのをやめた。
 そういうことが、時々起った。お姉さまの声はさまざまだった。
「ちょっと。」
「あ。」
「ほら。」
「ね。」
 突然、眼を宙に据えて、戸外の気配に聴き入りなさる。お母さままで首をかしげて、じっと聴いていらっしゃる。わたしには何にも聞えないのだ。あとでお姉さまに伺うと、遠くの林の中を馬が駆けていたり、家のまわりを馬が歩いていたり、裏口に馬がふーっと鼻息を吐きかけたり、みんな馬のことばかりだった。
 どうも少しおかしい。それに、お姉さまは、頬の赤みは増したようだし、深々とした黒目の色がいっそう深くなったようだし、前よりも鼻筋が通って皮膚が薄くなったようだし、お美しさに病的な感じが濃くなっていた。お咳は少し間遠になったが強くなり、お熱は平均すれば前と同じく七度二三分だが高低が多くなり、お食慾は減ってくるようだった。野島先生も前々から、暖いうち海岸へでもいらした方がよろしかろうと勧めていらしたし、川井の伯父さまから丁度、湘南の或る療養所に室の予約が出来たことを知らせて来た。
 お母さまとお姉さまとは、なにか御相談なすっているらしかった。
「でも、来て下さるかしら、わたくしがこんな病気なのに。」
「お招きすれば、きっと来て下さるよ。御一緒に食事をするわけではないのだから。」
「来て下さるとは思いますけれど、お招きして断られたら恥ですもの。」
 なんのことかと尋ねてみたら、ここを引き上げる前、お世話になった菊地さん御夫婦といっしょに、小野田さんも、お食事に招きたいという話だった。わたしは呆れた。
「そんなことなら、わたくしが内々お聞きしてみましょう。」
 わたしは心と逆なことを言ってしまった。小野田さんはいったい失礼な人だとわたしは思っていたのである。自分勝手によその牛乳を取りに行ったり、わたしの楽しみを奪い取ったり、裏口だけで一度も上にあがらなかったり、物知らずにも程がある。その上、馬のことで、お姉さまやお母さまの神経をどれほど悩ましてるか知れない。お食事に招くことなんか、そもそもおかしい。わたしが出かけていって、ここを引き上げることだけを、きっぱりお知らせしよう。正式に作法通りに、御通知の挨拶だけしよう。どんな顔をなさるか。それに、あのひとのお住居も拝見してやろう。
 わたしはひとり心の中で決心した。

 思いきり派手なドレスを着、髪を風になびかしてわたしは出かけて行った。
 小野田さんの居所は、近藤別邸となっていたが、それはすぐに分った。堂々たる洋風の構えで、白樺や落葉松の植込みがあり、自動車置場らしいものまであった。窓はすべて閉め切って、カーテンが下してあり、低い土手囲いの中央にある入口には、頑丈な木格子の門扉が閉鎖されていた。様子がおかしいので、横手へ回ってゆくと、野薔薇のからみついた門柱が二本立っていて、奥まで見通しで、別棟の平家があった。わたしはちょっと躊躇した後、はいっていった。馬の蹄の跡で道はでこぼこだ。
 いやにしいんとしているその平家の、向う側は、水音がしていた。わたしは案内を乞うのをやめて、水音のする方へ行ってみた。
 見ると、上半身裸体の男が、大きな馬盥の水で馬を洗っていた。小野田さんがいつも乗ってる栗毛の馬だ。わたしは黙ったまま佇んだ。男は馬の向う側に回った。顔を見合せると、それが小野田さんだった。
「ほう、秋子さんか。どうしたんです。」
 わたしは恥しくなった。相手は半裸体なのだ。ただ微笑した。
「これは思いがけなかった。よく来ましたね。」
「ちょっと、通りかかったものですから……。」出たらめを言った。
「覗いてみたんですか。この通り、馬丁修業です。待って下さい、すぐ済むから。」
 小野田さんは半裸体を少しも気にしていないらしいので、わたしも気にならなくなって、近くへ行った。それでも、白い胸の真中に黒い長い毛が粗らに生えてるのが、眼について、わたしは馬の方ばかり見た。
 盥の水を馬の背や腹や足にかけて、大きなブラシでこするのである。栗色の毛並がつやつやと輝やくようで、見違えるように美しくなってゆく。馬は木に繋がれたまま、上唇をあげ鼻に皺よせ、ふふふと笑った。
「こいつ、あなたを覚えていて、笑ってますよ。なんしろ、駆けてる馬の鼻っ先に飛び出してくる、勇敢なお嬢さんだからな。」
 どうも、いけない、とわたしは思った。気を許しては負けだ。大きく息をして言った。
「ただ、通りがかりにお寄りしただけですから、ゆっくりお洗い下さい。お家にはあがっておられませんの、あなたとおんなじに。」
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