小野田さんはじろりとわたしを見て、ちょっと小首をかしげた。それから笑った。
「家の中より外の方がいいですとも。殊に僕なんか、あちらの洋間には住まずに、こちらに居候して、馬と同居だから。」
小野田さんは丹念に馬を洗いながら、馬のことを話した。馬は犬よりも猫よりも、もっと人間になずみ、人間の気持ちが分り、人間に忠実であると、戦地の実例など挙げた。
「でも、匂いがしますでしょう。」とわたしは言ってやった。「こないだの牛乳も、馬くさかったようですの。」
「ほう、それは素晴らしい。そんな牛乳なら、僕も御馳走になりたかった。」
「馬くさい牛乳を飲んでいますと、馬の夢をよく見ます。眼がさめていても、馬の駆ける音が聞えたり、馬の鼻息が聞えたり、馬が迎えに来たり……。」
小野田さんが馬の背に手を休めて、わたしの方をじっと見ているので、わたしは言いやめて、唇をかんだ。どうしてそんなことを言い出したのか、自分でもふしぎだった。
「それから、どんなことがありますか。」
わたしはもう黙っていた。
「くわしく話してごらんなさい。」
「いいえ、それっきりです。」強く言った。
小野田さんはしばし空を見上げた。
「それは、嘘でしょう。あなたじゃない。たぶん、夏子さんかも知れない。」
わたしは頬がぴくぴく震えるのを、自分でも感じた。
小野田さんはひどく真面目になり、怒ってるような調子になった。
「冗談じゃない。そんな錯覚が、もしあったら、僕がぶち壊してやります。戦地でなら、錯覚もまだ許されます。馬が通ってゆく。真暗な夜、一列になって、足音もなく、ただ姿だけ、影のように通ってゆく。際限もなく、長い列をなして、闇の中を通ってゆく。そんなのを見たという兵がいる。そういう錯覚も、戦地ではあり得るかも知れません。然しそれも、ほんとに馬を愛しないから起ることだ。僕はここに来て、別荘番の百姓にたのんで、馬を借りてきて貰いました。この家には、厩舎はあるが、馬はいない。この馬は、僕がここにいる間、借りてるんです。なぜそんなことをしたか。錯覚を、あらゆる錯覚を、追っ払うためです。錯覚を追い払うばかりか、新たな勇気が出てくる。乗馬は、颯爽として、男性的で、直情径行で、ひねくれたくよくよしたものを排除する。つまり、真直に駆けぬける。これが大切です。秋子さんも馬に乗りませんか。僕が教えてあげるから。」
怒ってるのでもなさそうだ。わたしは口籠った。
「乗りたいんですけれど……。」
「そんなら、なにも、遠慮することはないでしょう。」
「でも、もう日がないんですもの。」
小野田さんは変な顔をした。
「実は、近いうちに、ここを引き上げることになっています。」
「みなさんで……。」
「ええ。東京に帰ります。」
小野田さんは眼をぱちりとさして、黙りこみ、やがて思い出したように、ブラシでまた馬を洗い始めた。
「そうですか。そんなら、明日にでもゆっくり伺いましょう。」
予期しない結果になった。わたしの初めの心づもりはもう崩れてしまっていた。どうでもよいと思った。わたしはすぐに辞し去った。
翌日の午後二時頃、小野田さんはやって来た、馬には乗らず、黒い背広服に派手な博多織のネクタイをしめ、牛乳の一升瓶を手にさげていた。いつも前回に空瓶を持って帰り、牛乳をつめて届けてくれることになってるのである。
小野田さんが来る前、午前中、ちょっと変なことがあった。お姉さまがまた、小野田さんの来かたが遅いのを気になさってる御様子なので、わたしは、遅くなってもきっといらっしゃると断言して、もし違ったら大雷を鳴らしてみせると言った。わたしは前日に小野田さんのところへ行ったことを黙っていたのである。別に隠すつもりはなかったけれど、すっかり思惑ちがいになったことが、自分ながら惨めだったのだ。
お姉さまはじっとわたしの顔を見ていらしたが、ふいに、雷が鳴るまでここから発つのはやめたいと、子供のようなことをお言いなさる。この頃ちっとも雷が鳴らなかった。もし雷が鳴ったら、秋子さん、庭の木に落してね、と真面目にお言いなさる。雷が落ちた跡には穴があいて、穴の底に美しい珠が残っている、とそこまでは昔噺だが、その珠を見つければわたくしの病気も直るけれど、珠を見つけなければこの病気はとても直らぬ、などと、それが冗談らしくもないのである。
それからどういう話の続きか、わたしが席を立ってる間に、お母さまとお姉さまとは、小野田さんの馬はもと軍馬だったかどうかと、つまらぬことを長々と話しあっていらした。お母さまは、軍馬ではないだろうと仰言る。お姉さまは、軍馬だったろうと仰言る。明け方、あの馬が誰も乗せないで独りで、どこまでもどこまでも走ってゆくのが見えた。森をぬけ、谷を越え、山を登って、走ってゆくのがいつまでも見えた。あん
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