云った。
 二人はまた少し酒を飲んだ。然し二人の間には軽い敵愾心があった。妙に他処々々しい視線を互の上に投げた。
 二人が其処を出たのは九時すぎであった。二人共大分酔っていた。熱い頬に冷たい空気が流れた。街路の灯がいつもより赤いように彼等の眼に映じた。
「球を突いてゆくのか。」
「突いてゆくさ。」
 そして二人は例の球突場にはいった。瓦斯の下に見馴れた球台を見出すと、彼等は急に心が和いで、先刻のことは忘れてしまった。
 其晩林は来なかった。村上と松井とは遅くまで無駄口をたたきながら球を突いた。おたか[#「たか」に傍点]が美しい声で然しいい加減にゲームを取った。

     三

 一雨毎に寒くなっていった。百舌鳥が鳴いて銀杏の葉が黄色くなっていた。
 その日朝から怪しい空模様だったが、午後には大分激しい吹き降りになった。そして晩まで続いた。
 ささっ、ささっと大粒の雨が合間々々に一息しながら降り続いた。それが風に煽られながら軒や戸や木の葉の茂みにうち附けて一面に霧を立てた。雨と風と縒れ合いながら軒から軒へ通りすぎてゆく時、凡ての物音は消されて只騒然たる雨音ばかりが空間に満ちた。
 おたか[#「たか」に傍点]は一人で球突場に居た。
 彼女は何かしら気がくしゃくしゃしていた。ともすると心が滅入《めい》りそうになった。凡てのことが妙に儚く頼りなく思えるのであった。それなのに手足の先きには生々とした力が籠って、溌溂たる運動を待ち望んでいるかのような心地がした。
 で彼女はそっと飛び上って球台の上に腰掛けた。そして両足をぶらぶらと動かした。空間に触る蹠の感じと膝関節の軽い運動とが、彼女の心を楽ました。それは彼女が幼い時からそのままに持っている唯一の感覚だった。
 その時彼女は、いつかも同じ様に球台に腰掛けていた時、はいって来た客に見られて抗議を申し込まれたことのあることを、ふと思い出した。そして何となく可笑しくなった。
 彼女は球台に腰掛けながら、球を拭いた。そして低い声で種々な小唄を歌ってみた。後には幼い時覚えた唱歌までも口吟んでみた。それから心の中では遠い未来の幸福を夢みた。外に荒れている暴風雨が何か思いも寄らぬ幸福を齎すのではないかと空想した。
 然し乍らその瞬間はすぐに去った。彼女は自分の夢に自ら驚いた。それは現在のうちにちらと映ずる過ぎた幼時の心であった。自ら識って
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