見ることの出来ぬ夢であった。
おたか[#「たか」に傍点]はちぇっと舌打ちをして球台から飛び下りた。そして急いで球を拭き終ってそれを箱の中にしまった。もう客もないと思ったのである。そして刷毛で台の羅紗を拭いた。生に疲れたといったような気分が彼女の心を浸していた。
その時表に急な足音がして、入口の硝子戸ががらりと開いた。
それは松井であった。傘を手にしながら殆んど半身は雨に濡れていた。
「まあどうなすったんですか。」
「球突きに来たんだよ。」
「おやそれはどうも毎度あり難う。」と云っておたか[#「たか」に傍点]は笑った。
「なに実はね、今日昼間から友達の処へ行ったんだ。余り止まないから帰りかけたんだが、この通りびしょ濡れになってしまって、仕方なしに飛び込んだのさ。」
「あら大変濡れていらっしゃるわね。家に着換でもあるといいんですが。……あそうそう、」と云って彼女は大きく一つ息をした。「煖炉を焚いてあげましょう。少し早いんですけれど。じきに乾きますよ。」
「なにいいんだよ。」
それでもおたか[#「たか」に傍点]は煖炉に炭をくべて、火を入れた。二人はその前に椅子を並べた。
「さすがに今日は誰も来ないんだね。」
「ええ、わざわざ濡れてまでいらっしゃる方はあなた一人ね。」
「これは驚いた。」
「いえ、だからあなたが一番御親切だと云うんですよ。」
「一番親切で一番厄介だというんだね。……だが一体こんな時には君はなにをするんだい。」
「え?」
「一人で隙な時にさ。」
「これでも、」と云っておたか[#「たか」に傍点]は笑った。「種々な用事があって、そりゃ忙しいんですよ。」
「へえ。余りよくない用事ばかりでね。」
「馬鹿なことを仰言いよ。」
煖炉の火が音を立てて燃え出した。竈が赤くなって二人の顔を輝らした。珍らしく接する赤い火の色や音や匂いまでが、全身の感覚にある悦びと輝きとを起さした。二人はふと顔を見合ってわけもなく微笑んだ。
「火というものはいいもんだね。」
「ええ。でも私は煖炉より炬燵の方が好きですわ。よく暖まってね。」
「炬燵でちびりちびり酒でもやるなあ悪くはないね。」
「私だめ。ちっとも飲めないんですよ。」
「特別の場合を除いてはね。……だが今日のような暴風雨《あらし》の日には煖炉もいいね。雨音をききながら火を見てるなあいいものだよ。」
「私は頭がくしゃくしゃしてこ
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