か。どこの子供のどういう死体かさえも分りませんでした。
「まったく嫌な話だわ。」と言って辰子は額に皺を寄せました。
 恒吉は笑いました。
「うちの池が美しいから、誰かが妬んで、そんな噂を作りだしたんだろう。」
 然し辰子にしてみれば、なんだか不気味で、笑って済ませられもしませんでした。噂の元をつきつめたく思いましたが、打ち明けて聞けるほどの懇意な人もありませんでした。昔からの隣り近所の人たちは遠くへ散らばっていましたし、ぽつぽつと、壕生活やバラック生活をはじめてる人たちに、親しいのもありませんでした。思いあぐんだ辰子は、或る時、ちょっとした買物のついでに、大井増二郎の店先に腰を下して、お上さんの時子と世間話をしたついでに、例の噂のことを持ち出してみました。
 時子は辰子より少し年下で、ちょうど三十歳でしたが、へんに知能の低いところがあり、偏屈なところがありました。
 辰子が笑いながら、噂のことを持ち出しますと、時子は俄に顔色を変えて、口を噤んでしまいました。頬骨の少し張った、鼻の低い、丸みがかったその顔は、蝋細工のようになり、切れの長い眼だけが、作りつけのもののようで、光ってきました。
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