とを云ってるのではなかった。正気と狂気とのことを云ってるのだった。
「正気と狂気とは、空中に、殊にこんな都会の中には、至るところに浮游しています。どれを吸いとって、どれを吐き出すかが、重大な問題です。」
 そして彼は、一寸間違ったという経験を話しだした。
 もうよほど以前のことで、俥がまだ方々にあった時のこと、彼は少し熱があったので、俥にのって医者に出かけた。晴れてるが風の強い日だった。日にてらされたなま温い空気にのって、風がさーっさーっと吹いている。それが俥の幌に、ばさーりばさーりと吹きつけてくる。いやな風だな、と思っているうちに、やがてその風が、ばかーばかーと怒鳴るのである。
 彼は我慢した。風はなお、ばかーばかーと叫んでいく。それでも彼は我慢した。風の方はなお勢を得て、四方から彼の方へ吹きよせてきて、ばかーばかーと、怒鳴るのである。耳をふさいでもおっつかない。しっきりなしに怒鳴る。しまいに彼は辛抱しきれなくなって、ばかーと怒鳴り返してやった。風の方でばかーと怒鳴る。彼も思いきって、やたらに怒鳴り返してやった。
「それからです、私は暫く気が狂ってしまいました。あの時、耳の穴から狂気
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